1.つまづきの民
『6:13 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。6:14 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。』
この時代の人々は、身分の低い者から高い者まで自分の利得をむさぼっていたようです。それが、神様の御言葉を取り次ぐべき預言者や、祭儀を執り行う祭司に至るまで、みな偽りを行って(欺いて)いたと書かれています。つまり、例外なくすべての人々が、神様の道から外れていたということになります。なぜこうなってしまったのでしょうか?。エレミヤ以前から、時代背景を見てみましょう。
・北イスラエル王国がB.C.722年にアッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリアは中東を制覇しました。
つまり、南ユダは戦わずして、アッシリア帝国の属国になったので、滅ぼされなかったのです。
・エジプトを版図として狙うアッシリアは、中東諸国の地盤から部隊を派遣します。その通り道となっている南ユダは、アッシリアに従い続けるか?、エジプトとつながって属国支配を脱するか?苦しい立場でした。
・その時南ユダの王だったヒゼキヤは、アッシリアの顔色をうかがいながらも、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれる地下水路を完成させ、エルサレムの街だけが生き残ろうとし、実際陥落だけは免れました。
・ヒゼキヤ王の前のアハズ王の時に盛んだった偶像崇拝を一部だけ取り除き、宗教的にある程度回復しました。
・ヒゼキヤ王の次のマナセ王は、偶像崇拝を行い、なんと55年間も南ユダを統治します。
・エルサレムは、偶像崇拝が定着して、最も大切にしていた過ぎ越しの祭りも行われず、モーセの律法も忘れられます。
・ヨシヤ王が現れ、南ユダはアッシリアの属国から独立することができました。バビロニアの勢力拡大のため、アッシリアが弱くなったのです。
・ヨシヤ王は宗教改革を始めます。
そのころ、預言者や祭司たちは民を悔い改めに導くどころか、平和がないのに、『平和だ、平和だ』と言っていました。民は民で、彼らの偽りの言葉の方を、エレミヤの預言よりも心地よく聞きました。ここで、平和ですが、シャロームというヘブライ語です。シャロームは、戦いのない意味の平和な状況だけを指す言葉ではありません。本来の意味は、神様にある平安を表します。その平安には、「繁栄・健康・満足・生きる意欲・知恵・霊的開眼・救い・罪からの勝利」といった、人々が力といのちにあふれるすべての状態を含みます。
そこで、主はエレミヤを通してこのように語りました。
『6:15 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/わたしが彼らを罰するとき/彼らはつまずく」と主は言われる。』
それは、そう言われて当然ですよね。
2.神様の命令
『6:16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。』
行先は、二股に分かれて二者択一となっているとは限らず、さまざまな道があります。分かれ道に立ち、そこから見渡して、「昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か」を確かめなさいと。そして、幸いに至るの道を選びなさい と主は言います。
私たちの人生には、様々な道があります。今まで選んできた道を振り返ると、間違っていなかったと思うこともあるでしょうし、選択を誤った、もう一度戻りたいと思うこともあるでしょう。しかし、時間は過去には戻せません。今は、前を向いて、これから歩む道を見渡して、幸いの道を選ぶしかないのです。
エレミヤは、頑なな南ユダの民たちに、「昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か」と語りました。「昔からの道」とは、神様が教える道です。そこから幸いの道を選ぶようにと語っています。
『6:17 わたしは、「あなたたちのために見張りを立て/耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。しかし、彼らは言った。「耳を澄まして待つことはしない」と。』
主に呼びかけ、祈り、捜し求め、心を尽くして求めるなら、主を見つけ、羊飼いに導かれる羊のように守られます。しかし、彼らは「耳を澄まして待つことはしない」と・・・
主は私たちにわざわいではなく平安を与え、将来と希望を与えてくださると約束してくださっています。それなのに、主を見ようとしなければ、探そうともしないのです。弱くて、愚かで、盲目である羊のような私たちを、羊飼いであるイエス様が導いてくださいます。私たちのたましいを生き返らせ、安らぎを与えてくださる主に感謝しましょう。そして、耳を澄まさなければイエス様は見つかりません。