マルコ2:23-3:6

人のための安息日


 2021年 2月 14日 主日礼拝

『人のための安息日』

聖書 マルコによる福音書 2:23-3:6 


 もともと、安息日とはいつのことを指すかと言うと、天地創造の第七の日のことです。現在の暦では第一の日は、日曜日ですから、第七の日は土曜日になりますが、ユダヤの暦では日没をもって日が変わりますから、金曜日の夕方から土曜の夕方までが安息日です。そして、この安息日にユダヤ教の人たちは神様を礼拝するわけです。


 その起源は、創世記『2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。』ことによります。また、日没で日が変わるのは、天地を造られたときは、闇に包まれており、「光あれ」との神の言葉で光ができたからです。この世の創造の第一日、それは夜から始まっているのです。

 この安息日には、不要、不急の事をしないのが決まり事でした。

それは、創世記に『2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。』とあるからです。ユダヤ教では、安息日には「働かない」ように細かく規則が決められていました。日常生活でも食事の準備は前日に終えて、安息日には家事をしません。極端な例を挙げますと、戦争をしていても安息日には休んだのです。ですから、安息日に攻撃してくる敵もいましたが、その時に反撃をしないのです。こうして、神様の定めた安息日を徹底して守りました。それは、神様が私たちのために与えてくださった、休息の時だからです。

 

 そして、今日の聖書箇所では、弟子たちが麦の穂を摘んだこと自体は、問題となっていないことを注目してください。旧約聖書には、この記事があります。

レビ『23:22 畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。』・・・


 ユダヤの民は、畑からの初穂は神に捧げました。捧げた後でなければ、収穫した麦は食べなかったのです。なぜなら、収穫をした麦のすべてが神様の物だからです。ですから、このレビ記にある神様のご命令によって「貧しい者や寄留者」のために、麦の穂を残しておくことが実際に行われていたのです。そういう事から、ファリサイ派の人々は、イエス様に対し、弟子たちが麦の穂をとって食べている事ではなくて、安息日を守らないことをとがめていたという事になります。


 麦の穂を摘む事は、「ファリサイ派の教え」(タムルード:口伝律法)では、禁止されていません。とがめられた理由は、この「ファリサイ派の教え」のなかで、「安息日に仕事をする」ことを指して、いけないとの指摘だったわけです。

 このように、教えを守るように指導するのがファリサイ派の人々の仕事でした。どうしてファリサイ派の人々は、安息日にあっても仕事をして良いのか?という素朴な疑問を持った人が居ると思います。じつは、決まりごとにはやはり例外がありまして、例えば祭司は「礼拝」を守るのが仕事ですから、祭司は安息日に祭司の働きをすることが許されているのです。やむを得ないことならば、安息日でもやってよいのは、明らかです。イエス様の弟子たちも、お腹がすいてたまらなかったから、麦の穂を摘んだのであれば・・・ある意味やむを得ないですね。 逆に、ファリサイ派の人々が「安息日には、麦を摘んではいけない」と注意することは、やむを得ない事とは言えません。ファリサイ派の人々は、まじめに、「教わったとおりにしている」だけかもしれませんが、だれの迷惑になっているわけでもないことに「いけない」と注意しているわけです。ファリサイ派の人々は、本気で「やむを得ないことでも、戒めは守るべきだ」それが、神様の為にも本人のためにもなる と思っているのかもしれません。このような お堅いファリサイ派の人々に対してイエス様は、ダビデの話題、先人たちの柔軟な判断を引き合いに出されました。

 ダビデの時代、ユダヤの王サウルがダビデの命を狙っていたので、ダビデはサウル王のところから逃れました。そのとき慌てて逃げたので食べるが無くて、祭司アヒメレクのところに行って、パンをもらいます。

サムエル記下『21:7 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。』(パンをくれたのが祭司アヒメレク当時の大祭司がアビアタル)このように、祭司アヒメレクは「空腹のダビデとその部下の為」にパンを与えましたが、そのパンは聖別されたもので、司祭しか食べてはいけない物でした。

 このとき、祭司アヒメレクは、「聖別したパンを汚すことが無い」このことを確認できたので、ダビデに聖別したパンを五つ渡しました。つまり、祭司しか食べてはいけないという理由が、「聖別したパンを汚さない」ためでしかなかったからです。「聖別したパンを汚さない」という目的のために作られた定めですから、目的の達成が保証されたパンに「さらに適用する」意味がありません。ですから、この定めには、食べ物に困っている人を見捨ててまで、厳格に守る理由がないのです

 

 イエス様は、そこで言いました。『「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。』と。 定め、そして定めを守る事は、人のためです。定めは、人のために作られた知恵とも言えます。逆に言うと、人が定めを守るために作られたのではありません。ですから、定めのために 人を指図するのではなく、人が生かされるように定めを運用する必要があります。そして、定めが適切でなければ、定めを直せばよいのです。そもそも、ファリサイ派の人々が作った定めです。ファリサイ派の人々が想定していたことと、現実に一般市民の生活で起こっていることには、違いができますので、定めを無理に押し付けるのではなく、その定めの精神に従って、考え直せばよいのです。

 神様が定めた、そして、イエス様の言う安息日は、「民を思っての休養」が目的でした。だから、弟子たちに「お腹がすいた状態をがまんしてまで、麦の穂を摘まないよう」に言うことは、的を射た判断ではありません。もし、このファリサイ派の人々が、弟子たちを指導したかったのであれば、「伝道者として立っているのだから、律法を守ることを率先して行いなさい」と 弟子たちに注意をする事もできます。しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様に苦情を言ったのです。それは、善意だけによる言動ではなかったからです。

それにしても、お腹をすかしても、ちょっとした作業も絶対してはいけないとまでの定めは、そもそもありません。実際のところ、ユダヤの民は安息日に仕事をしないようにするために、安息日の前に料理を作り終えます。しかし、安息日にはそれを食するという作業もすれば、鍋を火にかけて温めるという作業もします。簡単な作業や、やむを得ない作業は認められていたのです。そういう事から考えると、このファリサイ派の人々の言動は、イエス様のグループに対して良くない感情を持っていたのだと考えるのが自然です。特権階級であったファリサイ派の人々は、自分らを批判する人を追い詰めて、黙らせるために、律法の権威を使っていたのです。現代の言葉では、パワハラがあてはまると思います。立場のある者は、このようなことをしてしまわないように、本当に気を付ける必要があります。

 そして、続きがあります。ファリサイ派の人々は、イエス様が安息日に癒しをされることを期待して、「律法違反」の現場を押さえようとして待ち構えていました。イエス様が安息日に癒しをするように仕向けるために、ファリサイ派の人々は、会堂の中に片手の萎えた人を連れてきていたように考えられます。つまり、おとりを仕掛けて待ち伏せをしていたわけです。

 このように、特権階級の人たちが「気に入らない人」を追い詰めたり、排除したりすることは、現代でも、そして日本でも日常的に聞くことです。それでも、イエス様はそれと知っていながら、その片手の萎えた人を癒そうとされました。

聖書は、この様に続けます。

マルコ『3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。』

 

 イエス様の問いは、痛烈でした。明らかにファリサイ派の人々は、イエス様を罠にかけようと、狙っていたわけですから、律法学者とファリサイ派に人々は悪を行おうとしていたと言われても仕方がありません。イエス様は、その悪を行う事が律法で許されていない! と問いつめたという事です。

・・・ファリサイ派の人々は、この問いに答えませんでした。

 彼らの心はかたくなでした。思い直すことができなかったのです。イエス様を陥れるのが目的であることは、何も変わりませんでした。イエス様に言われても考え直さなかったからです。そして、正しく律法を読み取り、正しく指導するとの本来のファリサイ派の役割さえも、その悪意のある目的のために放り出してしまったのです。

 勝ち目がないと見ると、ファリサイ派の人々は、ここでは「だんまり」を決めて、そして次の作戦を考えます。その姿を見て、「イエス様は怒った」と聖書には書かれています。実際に悲しいですね。批判されると、どんな理由でもつけて人を攻撃しようとして、悪を行う。そして都合が悪くなると黙る。これが、私たちの姿なのでしょう。ファリサイ派の人々は、私たちの代表または、反面教師だと思って聖書を読むならば、そのように思えてきます。

 イエス様は、その場で片手の萎えた人を癒されました。善いことだからです。それから、片手の萎えた人は、真摯にイエス様にすがったのでしょう。このことを忘れてはなりません。イエス様にすがった結果、イエス様に癒されたのです。

残念ながら、イエス様はファリサイ派の人々のかたくなな心は癒すことができませんでした。イエス様は、一緒に癒したかったのだと思います。しかし、彼らは心を開きませんでした。「人のため」にイエス様は働かれています。そして、いつも癒しを与えてくださいます。しかし、ファリサイ派の人々のように「自分のため」だけに動いて、そしてイエス様の言葉に気が付いて、考え直さないのでは、癒される機会を失ってしまいます。イエス様は、小さい者からも言葉を届けますから、聞く耳を持つことができるよう、そしてかたくなな心を砕いていただくようイエス様に祈っていくのが大事です。私たちも、「人のため」に働きかけられるように、イエス様に祈ってまいりましょう。私たちは、そのために十分な判断はできません。しかしイエス様に祈ってすがっていけば、その力が与えられます。必ず癒されます。そして、私たちのかたくなな心も「片手の萎えた人」の様に癒してくださるのです。