ガラテヤの信徒への手紙3:15-25

神様の約束と律法


1.神様の約束と律法

 パウロはここで、アブラハムの子孫とは「一人の人を指して」と言います。また「その子孫とは、キリストのこと」と宣言しています。「神様の約束、祝福はアブラハムを通して与えられる」、という約束は、そもそも、その子孫にとって重要な意味を持ちます。パウロもパウロに敵対しているユダヤ人キリスト者にとっても同じであります。しかし、パウロが「その約束がイエス・キリストにおいて成就した」、「イエス・キリストへの信仰において与えられる」、「ユダヤ人と異邦人の区別なく救われる」、「この救いにおいて、律法はなんら意味をなさない」と主張したとき、彼らは反発しました。「それでは律法というのは無効なのか」という問いは、想定されたパウロの主張でした。

 その前に、神様の約束と律法の関係を述べておく必要があります。パウロは、まず「アブラハムに約束が与えられ、アブラハムはこの約束に対して信仰を持って応答し、神様の約束に従って生きた」、と明らかにしています。律法が与えられたのは、アブラハムの時代から430年後のモーセの時代になってからなのです。律法は後から出来たものですから、アブラハムには適用できません。もちろん、アブラハムが律法に従ったかどうかの判定は出来ます。しかし、律法を守っていなかったとしても、アブラハムを裁くことは出来ません。逆に、律法に叶っていたら、それはそれでアブラハムは義しい人であることの立証にはなります。いずれにしろ、神様がアブラハムを義とした事実は変わらないのです。そして、アブラハムが義であることは神様が保証した事なのであります。

 律法を絶対的に守るべき規則として育ったユダヤ人が、パウロの時代に多くいたのは確かに事実です。しかし、すべてのユダヤ人、ユダヤ教徒がそのように考えていたわけではありません。

 日本語に「律法」と訳されていますこの言葉は、ヘブル語ではトーラーです。その意味は、文字通り規則の体系としての律法でありますが、旧約聖書の最初の五書もトーラーと呼びます。このトーラーが書物として生まれたとき、生活の中心的な位置を占めていたはずもありません。それは、捕囚から帰還して律法を編集したエズラ(前458年)の時以来のことだからです。トーラーは、それ以来ユダヤ教の伝統に対する根本法になって今日に至っています。捕囚を体験した、ユダヤ人は、自分たちが神様に選ばれたイスラエルの民であるという自覚を何によって得たかというと、安息日を重んじ、シナゴグと呼ばれる会堂で神を礼拝し、割礼を守り、食事の規定を守り、倫理的な律法の規定を重んじることでした。それは、最初は、律法として守るというよりも、信仰告白的な意味を持っていました。しかし、エズラの時代になると、律法はイスラエルと非イスラエルを区別する目的から始まって、絶対的な規則へと変化します。

 パウロも律法を否定したわけでありません。トーラーと呼ばれる五書は、歴史、物語と法典とからなっています。歴史や、物語部分は、イスラエルの「わたしたちは誰なのか」というアイデンティティに答える役割を果たしています。これは五書だけに限っていえることではなく、歴史を物語るすべての聖書にも当てはまります。これに対して法典部分は「わたしたちは何をなすべきか」という生活の問題に答える役割を果たしています。トーラーには、その両方が混在しています。ユダヤ教とキリスト教の根本的違いは、トーラーについての見解の相違であると言われています。ユダヤ教は、ユダヤ人と非ユダヤ人を区別するものとして用いました。それに対してパウロは、古代イスラエルにおける神の義の働きの物語としてトーラーを位置付けました。パウロは、福音を異邦人に伝えるという使命のなかで、キリストによる贖いはすべての人類に開かれたものであるという確信を持ちました。ですから、トーラーを「神の選びによる贖いの物語」と受け止めるのが適切であると発見したのです。

2.律法とはいったい何か

 19-25節でパウロは、神様がなぜ律法を与えたかについて、「違反を明らかにする」ためと論じています。つまり律法が現れるまでは、無意識での神様への違反、悪行は、律法ができたことによって「故意の不従順」に変えられた、と言います。言い方を変えると、何が神様に対して不従順であるのかを律法が文書化したので、律法によって信仰が育てられたことになります。それで、パウロは律法の事を養育係と呼びました。そしてパウロは、律法の要求を満たし、その律法が求める罪の違反者に下される呪い(十字架)をイエス様が引き受けたと教えたのです。それは、律法の養育係としての律法を過去のものとして、救い主が現れるまで律法が果たした役割を示しています。

 パウロはこの律法を旧約聖書全体の意味で、ここでは理解しています。つまり旧約聖書が約束するキリストの到来の光の下で、ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷と自由人、男と女、大人と子供を区別しない、そういう救いへ向けての養育係という役割も旧約聖書にあったと言うのです。

 あくまでも救いは、キリストへの信仰によって与えられる神の恵みです。

 律法はもはや、人を分け隔てするものとしては、役割を果たしえなくなっています。キリストとの交わりは、他の人々を排除していた古い区別、差別を取り去りました。だから律法はもはや無効で、その呪いは、キリストの十字架の贖いによって過去のものとなりました。そのようにしてその養育係としてのつとめは終わりました。しかし、律法(旧約聖書)はキリストの救いを証言するために、いまなお重要な意味を持ち続けています。

 パウロは、イエス様と同じように、その律法を、神を愛し隣人を愛せよという言葉に集約できるものと考えています。このように、律法は神様の約束の下に、仕え、従属するものです。「神様の約束を律法に従属する、その律法の行為によらなければ得られない」との考えは、聖書の正しい理解ではありません。キリストは、律法を成就したのです。旧約聖書の中に約束されていた救い主として、わたしたちを律法のしばりから自由にし、神様の愛に生きる人間に変える方として、イエス様は来たのであります。神様は、この恵みを私たちに与えたことを、喜びをもって受け止めたいものです。