ヨハネ4:5-26

 生きた水をください

2024年 6月 16日 主日礼拝

生きた水をください

聖書 ヨハネによる福音書4:5-26


 今日は、ヨハネの福音書から「生きた水」の記事です。

ヨハネによる福音書は、天地創造、バプテスマ、弟子集め、カナの婚姻の奇跡で始まります。その後、イエス様はユダヤの地に来て、バプテスマを授けていました。実際には、イエス様の指導の下で弟子たちが授けていたようです。残念ながら、どこでバプテスマを授けていたのかはわかりません。ただ、伝承としてヨルダン川東岸のアル・マグタスだと言われています。ここは、ヨルダン川でも下流側の死海の近くであります。そして、アル・マグタスが、世界遺産となっている根拠の一つが、イエス様がバプテスマを受けた時のこの記事です。

ヨハネ『1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。』

 ヨルダン川の東側にあるこの遺跡には、ローマ時代の遺構、特にバプテスマ槽がたくさんあることや、地名そのものがアラビア語でバプテスマを指していることが、その説を補強しているそうです。バプテスマのヨハネ以来、このアル・マグタスがバプテスマの中心地だったというわけです。聖書には他にも、「サリムの近くのアイノン」(ヨハネ3:23)がバプテスマのヨハネの拠点として書かれていますが、場所は不明です。ヨルダン川のもっと上流側のサマリアかガリラヤの町だと思われます。そして、イエス様がバプテスマを授けたのは、アル・マグタスと言うのは、伝承でしかありません。その場所について、聖書には書かれていないからです。

 さて、今日の並行記事には、イエス様がガリラヤに退く記事があります。

マタイ『4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。』(及び マルコ1:14)

イエス様がガリラヤに退いた大きな理由は、バプテスマのヨハネが捕まったことでした。イエス様は、バプテスマのヨハネよりも多くバプテスマを授けていたので、目立っていました。そこに、ヨハネが捕まったものですから、ファリサイ派の人々はよりイエス様に注目します。それで、衝突を避けるために、イエス様と弟子たちは、ガリラヤへ戻ろうとしたのだと思われます。


 その時イエス様は、サマリアを通りました。当時、ユダヤ人たちはサマリアの人と会うことを避けたので、サマリアを通らず、わざわざヨルダン川の東側にわたり、廻り道をするのが常でした。もともとサマリアの人もユダヤの人と同じイスラエルの人でしたが、北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされたあと、サマリアは完全に異国になってしまったのです。ですから、同じイスラエルの血を引きながら、「神に選ばれた民族」と自負しているユダヤの人々は、サマリアの人々を軽蔑していました。サマリアの人々は、「神に選ばれた民族」という血筋を守らなかったからです。血筋を守らなかったのは、異教の人との結婚のためです。この結婚は、異教の神々を礼拝する原因となりました。それが、ユダヤの人々がサマリアの人々を徹底的に嫌った理由です。それにしても、ここまで不便を承知で遠回りすることに、驚かされます。

 それなのにです。イエス様はあえてサマリアを通りました。その理由は2つ考えられます。一つは、後を追われてもサマリアに入ったら、ファリサイ派の人々は引き返すだろうとの、考えです。もう一つは、このサマリアの井戸辺で目的の女性に会うためだとも考えられます。そして、イエス様とサマリアの女が出会った場所は、ヤコブの井戸でした。神様から、「イスラエル」という名前を頂いたこの民族の象徴的な場所です。


『4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。』

 まず、当時の水汲ですが、女性の仕事でした。そして、暑くなる昼を避け、午前中の日が高くなる前に汲みに行きます。イエス様は、その昼の暑いさなかに、井戸の近くで座って待ちました。だれも来ない・・・そんな可能性すらあります。そう言った視点から言うと、この女が昼の暑いさなかに水を汲みに行くのには、訳がありそうです。

 このサマリアの女は、人目を避けたい理由がありました。五度も結婚を繰り返し、今も一人の男性と一緒に住んでいるからです。聖書には、詳しい状況も、その理由についても書かれていません。しかし、当時の離婚の条件から彼女のことが推定できます。離婚の条件は二つしかありません。夫が死んだので再婚するときと、夫が妻に対して離婚を請求するときだけです。五度も結婚を繰り返したのであれば、夫が離婚を請求するような原因は、本人にもあると思われます。現状でも、6人目の男性と同居していて、その男性が夫ではないという事実は、重いです。5回の離婚の理由も、そのような事情なのかもしれません。それで、この女は、町の女性たちが水を汲みに来る時間帯を避け、真昼の暑い中、水を汲みに井戸へ来ていたのです。

『4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」』

 イエス様がこの女に「水を飲ませてください」と頼んだところから、かみあわない会話が始まりました。当時はユダヤの人々はサマリアの人々を蔑んでいましたから、サマリアの女にお願いすることなどありえません。女はそのことを指摘しますと、イエス様は答えます。

 イエス様は、「生きた水」のことを「神の賜物」として、答えました。

「もし、あなたが、生きた水を知っており、「井戸の水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知ったならば、あなたの方から「生きた水を飲ませてください」と頼む」と・・・

 イエス様は、ご自身が救い主であることをほのめかしたのですが、サマリアの女は、「この人は、良い水の出る井戸を持っているらしい」程度にしか理解していません。ユダヤの地域は、生きた水が貴重でした。川のように 流れる水源は、ほぼなくて、井戸だけです。ほかは、雨水を貯めた水。それは、死んだ水なのです。女は、水を飲ませると言うイエス様を疑います。

『4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。』

女の言うことは、実に現実的です。しかし、ちょっとだけ変化がありました。イエス様に尊敬を示して「主よ」、と呼んだのです。でも、イエス様の事を救い主と知ってのことではありません。その証拠に、この井戸を掘ったヤコブよりもあなたは偉いのですか?(4:12)と 女は問いました。すると、

『4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」』

 ここで、イエス様は生きた水とは、「霊の命」であることを明しました。しかしこのサマリアの女は、『その水を下さい』とは言いますが、「水汲みが要らなくなる 便利な水ならば下さい」という意味でした。

 そこでイエス様は切り口を変えます。話しが通じていないからです。

『「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」』。このイエス様の言葉に対し、彼女は、「私には夫はありません」と拒否します。しかし、イエス様は、全てをご存知でした。『今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』

 この女はさぞ驚いたことでしょう。「この人は私のすべてを知っている」・・・しかし、そこまでの理解でした。救い主が目の前にいて、救いのことばとして、永遠の命の水を与えようとしている とは 理解しません。人のうわさに敏感である半面、霊的には鈍かったのでしょう。

 イエス様は、彼女の生き方を非難するのでも、生活を改めよと説教するのでもなく、導いています。イエス様は彼女のすべてを知りながら、その罪を責めるのではなく、いままさに、神の賜物である永遠のいのちの水を与えようとしたのですす。イエス様は彼女の生活の問題を知っていただけでなく、苦しみや嘆きをも知っていたからです。すると、全てを言い当てられたサマリアの女は、霊的な目が開かれます。 

 もしかするとこの方は偉大な預言者ではないのだろうか?私は今まで罪を犯して来たのだから、神様を礼拝しなければいけない!でも、どこで礼拝したらいいのか?やはりエルサレムだろうか? そのまま思うままに、イエス様に問います。 そこで、イエス様は彼女にまことの礼拝者について話しました。

『4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」』

 サマリアの女は、このイエス様のことばを理解出来たのかはわかりません。しかし、その時彼女は、キリストの預言を思い出しました。

『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』

イエス様は、答えます「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 イエス様は霊的に鈍感な彼女に、ご自身がキリストだと宣言しました。こうした一連の出来事を通して、イエス様はこの女を変えました。彼女は、よく言えば恋多き女性なのでしょうが、それは心の渇き、霊の渇きを癒したいと、あがいた結果だったのでしょう。しかし、5回の結婚でその渇きは癒されませんでした。その彼女にイエス様は会いに来たのです。そして、イエス様の生きた水で、彼女の渇きをいやしました。変えられた彼女は、その後すぐに、伝道をし始めます。

 いつの時代、地域でも、霊的な渇きに苦しんでいる人がたくさんいます。霊的な渇きは、肉体的な渇きと並んで深刻な問題です。霊的に渇いている人たちに、生きた水である聖霊を与えてくださる方、それはイエス・キリストです。だから、霊的に渇いている人がイエス様と出会うことを、祈っていきたいですね。そして、私たちもサマリアの女のように霊的に渇いているのです。だから、皆さん。聖霊が私たちの上に豊かに降り注ぐように、「生きた水をください」とイエス様の名によって祈ってまいりましょう。