マタイ27:1-31

 ピラトの判決

 1.総督ピラト

 

 ユダヤ属州の総督ピラトは、たいへん評判の悪い人です。ユダヤ人を治める立場でありながら、ユダヤ人を怒らせるような事件をたくさん起こしています。聖書のピラトは、イエス様の死刑を避けるためにいろいろ考える冷静な人に見えますが、単純にユダヤ人とのトラブルを増やしたくなかったための冷静さだったのではないかと思われます。

 ユダヤの総督が仕事をするのは朝早くから午前中だけです。そのため、最高法院は夜中に裁判をし、そして夜が明けるとピラトに引き渡すわけです。死刑については、最高法院に決定権が無く、ローマの総督がその権利を持っているからです。

 

2.ユダの自殺

 

 ユダがイエス様を売った価格は、以前触れました。

(銀貨1枚が1シュケルならば、30枚で250gの銀は、2万5千円という事です。)

 

『ユダが金入れを預かっていた』(ヨハネ13:29)ことかから、ユダはこのイエス様の群れのお金をごまかしていたとまでいう人がいます。しかし、ユダが、イエス様が有罪となって総督に引き渡されたことを知って、後悔するくらいですから、あまりお金目的には思えません。また、ユダはそのお金を返してから、自殺を図ったのです。このことから、ユダはイエス様が奇跡を起こして、その場から逃れられると思っていたのかもしれません。少なくとも、ローマの総督へ送られるという事は、死刑の執行をという理由でしかありませんから、本当にそこまで祭司長たちが本気だったとは、ユダは思っていなかったのでしょう。

 

3.ピラトの尋問

 

 イエス様をピラトが尋問します。訴状があるはずなので、その罪状書きをイエス様に尋ねたと思われます。ピラトとイエス様、そして祭司長たちや長老たちがそこにいます。

ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と聞くとイエス様は、ピラトに向かって「それは、あなたが言っていることです」と反論しました。すると、祭司長たちや長老たちがイエス様に不利なことを訴え始めます。しかし、イエス様は、何もおっしゃいませんでした。ピラトから見ると、イエス様がユダヤ人の王ではないこと、ローマに敵対しようとしている人ではないことはわかっています。つまり、自分に有利な弁明をすると思っていたのですが、そうされないイエス様に困惑します。助けようにも、助かろうとしないイエス様をどう裁くか?そして、この祭司長たちや長老たちをおとなしく帰らせるためには、どうしたらよいか?考えたはずです。

 

4.判決

 

 ピラトは、訴えられたことに関して争わないイエス様を見て、普通に裁くことをあきらめて、恩赦を誰にするか?を群衆に尋ねます。ピラトは、「祭司長たちや長老たちのイエス様への妬み」のための訴えだとわかっています。ここで、ピラトが決めるよりも群衆の意見を聞いて選ばせる方が、群衆が収まることは明らかです。つまり、道理や正義や法律で、裁くことに危険を感じていたのだと思われます。そして、そうこうしていると、裁判の席にピラトの妻から伝言が来ます。

『あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』

 

 その間に、祭司長たちと長老たちは、「バラバを釈放してイエス様を死刑にする」ことを群衆に説得し始めます。こうなってくると、その二択を群衆に聞いて、イエス様が助かればそれでよいと考えたと思われます。ピラトはタイミングを見て、『二人のうち、どちらを釈放してほしいのか』と尋ねます。すると、多くは「バラバを」と言いました。そして、 ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と尋ねると、そこにいる群衆は皆、「十字架につけろ」と言いました。

そこでピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言いましたが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続ました。収拾がつきません。もう、助けようがなくなってしまいました。そして出来ることは一つだけ、この裁きの責任をこの祭司長たちと長老たち、そして群衆に負わせることだけでした。

 

5.兵士からの侮辱

 

 十字架刑の目的は、命を奪う事だけではなくて、最大の苦痛を長時間与えることと、辱めることです。そして、その姿を公開することで見せしめとするのです。十字架刑にかけることによって、次に権力に逆らう者が出ないように、肉体も精神も壊してしまうことを目的としました。ですから、兵士も容赦なく、仕事として受刑者を辱めます。「そこにあったありあわせの物」を使って、王様の格好をみたてて、「ユダヤ人の王、万歳」などと罵倒するわけです。そして、暴力も伴いました。処刑場に行くまでの間は、十字架の横木を背負わされ、そしてむち打ちの上に、裸にされて十字架につけられます。そして、槍で突く等のとどめをせずに、痛みと渇き、そして呼吸困難の状態のまま何時間も生かしておかれます。

 こうして、人格をも否定する最悪の刑の生贄になる事によって、イエス様は私たちを罪から解放してくださったのです。