マルコ7:24-30

  シリア・フェニキアで

イエス様は、ユダヤ人だけに伝道をしていました。ティルス(ツロ英Tyre)の街は、かつて海洋国家であったフェニキアの中心的な貿易港です。ちょうどサマリアと隣接していました。

 1.フェニキアの女

 ギリシャ人であって、フェニキア生まれと言うことは、基本的にこの当時の地中海貿易を考えると特に珍しくはないと思われます。当時の船では、地中海の真ん中を渡ることは大冒険になってしまうので、沿岸や島影に停泊して嵐を避けながら航海をしたわけです。当時のローマはエジプトの穀物がなければ成り立ちませんから、フェニキアの港はどこも栄えていました。アレキサンダー大王が東征するときに、ティルスは陥落し、それ以降はギリシャやローマの支配下になっていますので、ギリシャ人も多かったようです。そういう意味で、このフェニキアの女は異教徒のはずです。それでもイエス様のことを知っていました。また、イエス様も目立たないようにしていた様子から、すでにフェニキアにもイエス様の評判が良かったのだと思われます。しかしながら、イエス様が誰にも知られたくないと思ったのは、やはり異邦人に伝道する時がまだやってきていないからだったのでしょう。そして、もうひとつ当時は女性がラビ(ユダヤ教の先生)から教えてもらうということはなかったのですが、イエス様には多くの女性の弟子がいました。そういう点で、イエス様は分け隔てはしないお方であります。

2.譬えでの会話

 

 子供たちというのは、ユダヤの民の事です。イスラエルの12部族のうち、10部族は失われていて、ユダとベンジャミンの民のことを指します。もちろん、この当時はすでにユダヤ人はローマの支配地域のどこにもいましたので、イエス様はフェニキアでそういうユダヤ人のために港町ティルスに出てきていたのだと思われます。

 次にパンですが、イエス様の教えや霊的なはたらきかけを「パン」にたとえています。いわゆる肉体の栄養となる腐ってしまうパンではなく、命のパンを指します。命のパンとは「神」そのものです。

ヨハネ『6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』

 小犬とは、自分の子(ユダヤ人)でもなく親戚(失われた10部族出身者)でもなく、ただ「すぐ隣り合って住んでいる言葉の通じにくい人」であることから出た表現だと思われます。(聖書にはマタイとマルコの平行記事以外には小犬は出てきません)。イエス様は、ユダヤ人に教える以上に文化や歴史を共有していない外国の人々に教えることは、難しいという意味で、言葉が通じない「小犬」と表現したのだと思われます。

 フェニキアの女は、「ユダヤ人のための教えだとわかっておりますが、その教えられているおこぼれは、この異国の者であるわたくしもいただいております。」と言ったわけです。イエス様は、その女に信仰があることを見たので、その女の幼い娘をいやすことにしました。

 そして、イエス様は言います。

『「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」』

 イエス様を信じるとき、すでに癒しがやってきているのです。それは、性別や人種や職業には関係なく、やってきます。イエス様は、分け隔てをされない方だからです。