2020年 11月 1日 主日礼拝
『律法からの解放』
聖書 ローマの信徒への手紙7:5-13
今月は、就任式が来週に迫り、またアドベントが29日となっています。これから、年末年始に向けて、皆さん忙しくなりますので、健康には気を付けて、まいりましょう。
今日は、さらさらと読むのが難しいローマの信徒への手紙です。ローマの信徒への手紙は、パウロが第三次伝道旅行で、コリントにいた頃に書いたものです。パウロは、まだローマに行ったことがなかったのですが、そのときすでにローマには多くの信徒が居ました。15章を読むと、パウロがローマの信徒たちに筆を執った目的がわかります。この時にパウロが計画したり、祈ったりしていたことを挙げてみると4つほどあります。
① 献金を渡すため、困窮しているエルサレムの教会を訪問すること。
② その後、ローマ滞在を経てイスパニアに向かう計画。
③ 偽教師の教えのためにローマの信徒たちが混乱しないこと。そのために教えをまとめて書き送ること。
④ ローマの共同体でユダヤ人と異邦人がうまくいくようにすること。
ユダヤ人と異邦人の信徒がうまくやっていけない理由は、ユダヤの習慣にありました。異邦人にもユダヤ人と同じようにすることを勧める人が居ましたから、食べるものから、律法に書いていることをとやかく言われだしたら、異邦人の信徒は大変だったことが想像できます。ここで異邦人の信徒と言っても、少し説明が要ります。まずユダヤ人ですが、ユダヤ人とは、人種を指す言葉ではなく、宗教でつながったユダヤ教の群れのことです。異邦人であっても、完全にユダヤの習慣を取り入れている人は、異邦人とは呼びません。人種的には異邦人ですが、この人たちはユダヤ人なのです。そして、それ以外の人種的には異邦人であって同じ神を礼拝する者は、「神を畏れるもの」とも呼ばれます。そういうわけで、聖書の中で異邦人と呼ばれているのは、人種的に異邦人で、かつユダヤの掟を守る習慣のない人になります。パウロは、そのことに大変骨を折っていました。パウロの書いた手紙の中にも、異邦人への伝道のために、割礼や食事での同席の問題について、何度も書いています。そして、異邦人を律法で縛ることについて、エルサレムの教会と協議をしています。(エルサレムの使徒会議 使徒15章)その時は、パウロの主張を認められました。しかし、その後エルサレム教会の態度が変わり、元に戻ってしまいました。
(ガラテヤ 『2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。』)
そこでパウロは、異邦人とユダヤ人がうまくやっていけるよう、第三次伝道旅行の時に献金を携えて、エルサレムを訪問しようとしていたのです。 異邦人のための使徒として立たされていたパウロは、伝道の障害になる、律法を異邦人に強制することをやめさせる必要がありました。そのためには、エルサレム教会を説得することが必要でした。そして、偽教師などの問題もパウロが伝道をするための課題でしたので、機会があるたびにパウロはその教えを教会当ての手紙に書き留めたのです。この様に、伝道の環境を良くしていった上で、パウロはローマを経て、イスパニアにまで伝道を進めようと考えていました。イスパニアとは、今のスペインのことですが、この当時スペインはこの世の一番の端だとされていました。パウロは地の果てまで、まだイエス様のことを知らない異邦人に向けて伝道をしようとしていたのです。そういうわけで、ローマの信徒への手紙は、異邦人伝道への熱意であふれているのです。
ここで、パウロが願っていて避けて通れないことは、律法に対する価値観が異なる人たちが、一緒に教会を作り上げていくことです。ユダヤ人は、律法を大事にするけれども、異邦人は律法を守る習慣がないという違いだけでは 問題は起こらないはずです。しかし、ユダヤ人と異邦人がうまくやっていけなかったのは事実です。その問題の直接の原因は、「ユダヤ人が異邦人に律法を守らせようとする」ことです。ユダヤ人達は、律法を守り、守らせることが信仰深く、尊敬される態度だと当然の様に思っていたのです。実際にパウロ自身も、もともとファリサイ派の人で、律法によって育てられましたので、律法を守る生活をしてきました。そして、それを完璧にやり遂げていると思っていたのです。しかし、イエス様に回心する前の過去のパウロがやっていたことは、キリスト教徒へのひどい迫害でした。律法を守らせることを、強要するために、多くの人々を迫害していたのです。これは、大きな罪です。しかし、パウロ本人は、神様に忠実に仕えていると勘違いしていたのです。律法は、聖なるものと信じているので、律法を守って かえって悪であるなどとは、思ってもいなかったわけです。しかし、パウロ自身にある罪の誘惑は、「律法」を利用して、大きな悪を行っていたのです。パウロは、律法を厳しく守ることと、守らせることが「善い事」につながると信じていましたが、そこで実際にあったことと言えば、拷問と殺人でしかなかったのです。しかし、イエス様に出会うまでは、その矛盾に気が付きませんでした。気が付かなかっただけではなく、「良く神様に仕えている」と思い込んでいたのでしょう。しかし、その律法を盾に迫害をすることによって、パウロは何も豊かにされていなかったのです。そして、パウロはダマスコでイエス様に出会い、気が付きました。目から鱗だった。 目が見えるようになると、パウロは、聖なる律法を必死で守っていたのに、それが神様の望んだことではなく、その行動が罪だったことが分かりました。ですから、パウロは、律法を守ること、守らせることには、罪の誘惑があると 理解したのでした。そしてパウロが言うように、パウロは律法に生きていたのが律法に死んだのです。
そういうパウロの体験から、パウロは律法によるのではなく、新しくイエス様が与えてくださった“霊”によって仕えるよう、手紙に書いて諸教会に送っていたのです。その一方で、パウロの結論は、「律法は聖である」と言うことでした。自然に考えると、律法に生きていたのが罪であることに気が付いたのですから、律法が「罪」の様に思います。しかし、パウロは「律法に罪があるのではない」としたのでした。このパウロの考えは、結果的にユダヤ人たちにとっても、異邦人にとっても対立する必要のない、妥協しあえる考えになったのだと思います。
このころと言えば、ユダヤ教とキリスト教が分かれる前でした。このようなパウロの働きによって、イエスキリストを信じる群れとしての、新しい教えが整えられていったのです。
私たちが、聖書で律法のことを理解するには、遠い異国の伝統的な掟だということではなく、日常的な生活の中の「道徳」のようなお手本と考えるとわかり易いと思います。パウロは、律法について、『7.5罪へ誘う欲情』を働かせる作用を持っていると指摘しています。カール・バルト(「ローマ書」P283)によると、『そもそも「律法による宗教的行為」は、してもよい事であって、しなくてもよい事』なのだということです。その、しても、しなくてもよい律法について、パウロは、どうして『罪へ誘う欲情』などと言うのでしょうか?
カール・バルトはこう書いています。
『そして、もし「律法による宗教的行為」をすれば、その人は自分自身に何らかの利益を齎したことになります。すなわち彼はまさにそうすることによって━彼自身が義とされ、確認され、強化され━彼自身の念頭や能力や努力に支柱を得るわけである。』
シンプルに言うと、「律法を行うことによって、義とされ強くなるのは、ほかならぬ律法を行った人です。」その結果、その人は『罪へ誘う欲情』につながれてしまうということです。・・誰でも、人から良い人と認められたい、そして義とされたいと願うのは当然ですが、「律法を行うこと」には『罪へ誘う欲情』という危なさがあるという考えたわけです。尊敬を集めたいとの欲情に襲われると、律法は人の人間的活動(つまり、むさぼり)を大いに助けるということです。パウロは、そのことを指して『死に至る実を結んだ』とまで言います。
そこで、パウロは『律法から解放され』て、『霊”に従う新しい生き方』をお勧めするわけです。
これは、パウロが、律法を否定したように感じる言葉です。しかしながら、「律法自身が罪なのではない」とも言っています。
律法自身に悪い意図が無いのはわかりますが、理解が難しいところです。
パウロは、このようにも言います。『7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。』
これを読むと「むさぼるな」との掟が無ければ、パウロはむさぼりを知らなかったと言っています。たしかに、掟に従わないことを罪と言いますから、掟がなければ罪を問うことができません。しかし、パウロはこのような言い訳を言ったのではありません。罪の力が強くて、罪がパウロを動かしていたのです。そして、罪が持つ「体を支配し走らせる力」を身をもって知らされたのです。罪のもつ悪の力の強さは、どこから来るのでしょうか?そして、どうして律法によって起こるのでしょうか?
少しパウロの言葉を補足してみると、こんな感じのことを言っているのだと思います。
私の中の罪は「むさぼるな」との掟を逆に利用して、私にあらゆる事をむさぼることに目覚めさせた。罪はその律法をも悪に利用する。
この様に考えてみると、「罪は私たちの中にだけに」あるものです。ですから、律法は罪ではないし、律法を構成する一つ一つの掟も罪 ではないことになります。
ですから、パウロはこのように結論付けします。「罪は、律法や掟の聖なるもの、良い物を使って、私を欺き、私を殺してしまった。」
こうして、パウロは自身の罪について告白するのです。心では神の律法に仕えていますが、肉体は罪に仕えていることを告白します。同時に律法や掟は、守らせることを強制できるためにに、肉の思いから利用してしまうのでしょう。私たちは、この罪から逃れるためには、イエス様を通して神様に助けを求めるしかないのです。
パウロは、自身の体験を告白することで、
『自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。』と、律法からの解放を訴えます。
肉に従って生きていた時は、律法によって縛られていたのが、イエス・キリストによって律法から解放された。そのとき、パウロは霊に従う新しい生き方を見出したのです。私たちの心の中にある悪から、逃れるにはイエス様への祈りが必要です。イエス様に祈って、いろいろなことに縛られている私たちを解放していただきましょう。