3章の続きで、ペトロとヨハネは神殿の「美しの門」で足の不自由な男を癒した後の物語です。
その癒された物乞いの男は40才過ぎ(4:22)です。小さいころからの病であれば40年もの間、この神殿で物乞いをしていたことになります。その長い不自由な生活を考えると、だれでも助けてあげたくなるでしょう。ましてや、ここは神殿です。毎日多くの人が通り、そして医者も財力のある者もここを通ります。それは、相当に長い期間、この国にはこの足の不自由な男を癒すことが出来る人が現れなかったです。もちろん、ここに集まってきている群衆もそのことを良く知っています。ですから、いまこうして神様の業が行われたことを喜びました。
そして、ペトロとヨハネは、この集まった群衆に向けて、イエス様の復活と、イエス様の力による癒しであることをこの群衆に向けてお話したのです。ここまでが背景です。
1.サドカイ派
そこに神殿のスタッフと一緒にサドカイ派の人々が近づいてきます。「イエス様が復活した」とペトロとヨハネが人々に延べ伝えて、5000人もの人々が信じたと書かれていますから、サドカイ派の人々は、がまんがならなかったのでしょう。サドカイ派は、復活を否定したといわれているからです。
使徒『23:8 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。』
彼らは、ペトロとヨハネを逮捕してしまいました。裁判にかけるために、翌朝サンヒドリン(最高法院)に連れて行くためです。
2.何の権威によって
次の日、議員、長老、律法学者が集まってきます。そして、彼らは『「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」』と尋問します。
この尋問にある前提は、「権威は、祭司長たちにある」という事だと思います。「神殿の中で祭司長たちに断らずに勝手なことをしては困る」と言うのが本音だということです。祭司長たちが代々築き上げてきた、名声と富が損なわれることにだけ注意が払われていて、一人の男が癒されたことや、ファリサイ派とサドカイ派の教えの違いなどは、完全に無視しています。つまり、ペトロとヨハネを黙らせることだけを目指した尋問だと言えます。
3.イエス様の名によって
ペテロとヨハネは議員、長老、律法学者たちの尋問に、応える用意ができていました。既に群衆に語って、多くの群衆が信じたことだからです。
『あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。』
イエスは「名前」で、キリストは「救い主」のことですが、ギリシャ語ではイエスのことをイェスース(Ἰησοῦς)と呼ばれます。元のヘブル語では、ヨシュアのことです。ヨシュアとは、
ヤァウェ(主)は救いと言う意味です。イエス様は主ご自身ですから、イエスと言う名の中に「救い主」という意味を表しています。
4.イエスは唯一の御名
ペテロは、主イエスの身に起こった事を、詩篇を引用して論証しています。
詩『118:22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。」と、旧約にもあるようにこれは、神様のご計画であったと、そしてイエス様が唯一の権威であることを証ししました。ペトロとヨハネは、議員、長老、律法学者の権威に恐れることなく、言い切ったのです。