イエス様がエルサレムに来て、三日目、それはイエス様が神殿で宮清めをした翌日です。神殿に巣食う商人たちによって祭司たちが買収されており、神殿を参拝に来た人々から富を吸い上げる仕組みを破壊することで、宮清めが行われました。イエス様から見れば宮を清めたことになりますが、祭司長たちや商人から見たら、営業妨害でした。
1.何の権威で
『11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」』
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」とあるのは、宮清めのことを指しています。なぜ宮清めをしたのか? と 聞いてしまうと、「祭司長たちが、神殿を祈りの家ではなく、商売の家にしているからだ!」と答えられてしまい、身も蓋もありません。そこで、何の権威で?、その権威はだれが与えたか?と聞いたわけです。 彼らは、権力の座についていて、いつも権威をふりまわしていました。「祭司長たち以外にその権威は無い」とでも言いたげな様子です。祭司長たちの持っている権威は、神様に仕える者の特権だと言うことです。だから、神様のみを畏れ、神様のみに仕えて、はじめてその権威が認められるのです。しかし、彼らは、お金に仕えていました。
イエス様は「何の権威で、このようなことをしているのか」と問われて、逆にこう問いました。
『11:30 ヨハネのバプテスマ(洗礼)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」』
彼らはそれに答えられませんでした。なぜかというと、もし「天からだ」と答えると、それならば、神様に仕える祭司長たちが、なぜ率先して彼からバプテスマを受けなかったのかと、言われるだろうからです。また、もし「人からだ」といえば、つまり、それはヨハネが自分勝手にやっているだけだと言うことになります。そんなことを言えば、バプテスマのヨハネを預言者として信じ、バプテスマを受けていた人々が大勢いたわけですから、群衆からの非難は避けられません。つまり、本音を言ったら、身に危険が迫ると思って、そして自分の権威が保てなくなると思って、言葉でごまかしたのです。つまり、彼らは群衆と権威の失墜を恐れました。神様のみを畏れ、神様のみに仕えるべき祭司長たちは、神様を畏れないで、人間を恐れていたということになります。
イエス様はこのようにして、彼らがもっている権威とは、「人間の評価」であることを暴露したのであります。彼らの権威は神様に根拠がないので、それはもはや人の都合のための権威です。そして彼らが、中身のない権威にしがみついている者にすぎないことを 露わにしたのです。
2.神様のみを畏れる
祭司長たちは、神様のみを畏れるという彼ら自身の任務を放棄し、空っぽの権力を振りかざして、人々から搾取をしているのです。彼らに対して、イエス様は真実の権威をもっていましたから、畏れる事は何もありませんでした。一方で、祭司長たちのように人間を恐れるということは、失うことを恐れる事であります。自分は見捨てられるのではないか、自分を守ってくれる人はだれもいないのではないか? この恐れは、ただ単に、今の自分の立場が心地良いということから来ていて、それを手放すことは受け入れられない事を示しています。つまり、自分のためだけの人生を送っているのです。
それにしても、本当に畏れなければならない神様を畏れないということが、逆に「他の何者をも恐れる」ということに繋がってしまうとは、皮肉なものです。
『11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」』
ここでは、祭司長たちの都合で「分からない」と言う言葉が出てきました。正直に質問に答えるのではなく、この答えによって群衆から評価される(=権威が失墜する)ことを恐れたからです。つまり、失墜するような根拠のない権威を大事にし、その空っぽな権威を守り抜こうとしたのです。一方で、イエス様は真の権威の下で、躊躇なく宮清めをしたのです。この行動によって、権威が失墜する心配はありません。ましてや「神様の権威によって宮清めをした」と真正面から答えなくても、群衆はすでにそれを察知しています。しかし、その答えでは、問題がありました。祭司長たちが、「神への冒涜だ!」と訴えることを認めるようなものだからです。宗教裁判になって、有罪となることでしょう。イエス様は、十字架にかけられるとき、たしかにその罠にはまりました。しかし、それはその時が来たからであり、今はその時ではありません。イエス様は、「わたしも言うまい」と言って、これ以上 祭司長たちを責めることをしませんでした。
権威を与えられた人間は、いたずらに威張ることも、責めることも必要はありません。なぜならその権威の元は、神様だからです。神様ではない私たちは、自分の弱さをいつもさらけ出して、神様の権威の下に生きていけばいいのです。そうすれば、自分の力ではなく、イエス様をよみがえらせた神様の力で生きることになるからです。 祭司長たちは、神様にのみに従うことをせず、ただ空っぽな権力をふりまわして、人々を無理に従わせ、富と権威を増し加えようとした。それに対して、イエス様は神様からの権威を頂いていましたから、自然体で、神様の思いに従って 宮清めを実行できました。もし、イエス様が祭司長たちの言葉を恐れ出したなら、とてもできない事でありました。真の権威を持たない私たちならば、権力者たちのほうを恐れだして、神様のみ旨から離れてしまうという怖さをもっていると言うのです。
わたしたちが、もし空っぽな権威の前に畏れおののき、神様のみを畏れるということを忘れてしまう時、私たちの意思は、きわめて脆いことを知っておかなくてはなりません。