ルカ24:前書き-12

復活による希望 

2021年 4月4日 主日礼拝    

『復活による希望』 

聖書 ルカ24:前書き-12

 

イースターおめでとうございます。

今日は、十字架におかかりになられたイエス様が、復活された記念日です。

十字架からイエス様がおろされたとき、日が暮れそうになっていました。日が暮れますと過ぎ越しの祭りの安息日ですから、葬りの準備をすることができません。 イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちは、墓に行ってイエス様の遺体が納められている有様を見届けると、家に帰って、香料と香油を準備しました。ユダヤでは、昼間に葬りをします。安息日を避けて、土曜の夜に葬りをするわけにはいきませんので、日曜の朝まで待つ必要があります。ですから、日曜日の朝になって、婦人たちは墓に向かいました。その婦人たちとは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアです。この3人は、イエス様に最も近い女性だったと思われます。マグダラのマリアは、イエス様の弟子と思われますし、ヤコブの母マリアとは、ゼベタイの子ヤコブ(小ヤコブ)とヨハネの母で、イエス様に同行していました。他にも多くの婦人たちが同行していました。このような記事がルカによる福音書にあります。

ルカ8:1-3『8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。』

 このルカの記事を読みますと、結構な人数の女性たちが同行していたことがわかります。ところが、どの福音書もマグダラのマリアが墓に行っていることを書いていますが、11弟子たちは、そこには見あたりません。少なくとも、墓の入り口には円盤状の大きな石が扉として置いてあって、それを転がさないと墓の中に入れません。そういう事から考えると、男手が必要だったはずです。11弟子たちは、どこかに隠れていて、連絡が付かなかったと考えて良さそうです。そういえば、イエス様を墓に運んだ時も、11弟子たちは、そこにいませんでした。なぜなら、11弟子たちも追われていたからです。捕まれば、十字架の刑になるかもしれません。イエス様が十字架に掛けられた時も、遠くから眺める事しかできなかったはずです。

 

婦人たちが墓に行ってみると、石がもう転がしてあって墓は開いています。そして、イエス様の遺体を探すのですが、そこにはありませんでした。すでにイエス様は復活されていたのです。そしてそのことを告げるために天使たちの事でしょう。輝く衣を着た二人の人がそばに現れ、婦人たちに話しかけます。

二人の天使は、次のことを告げます。

1.イエス様は、生きておられる。ここにはいない。復活なさったのだ。

2.まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』

 婦人たちは、イエス様が話していたことを思い出しました。そして、急いで11弟子たちに伝えに行きます。

ところで、なぜ、天使たちがペトロ達のところに現れずに、婦人たちのまえに現れたのでしょうか? 一つは、天使たちが墓で一仕事していたという事が考えられます。もう一つ考えられることは、マグダラのマリアがイエス様の第一の弟子だったということです。少なくとも、天使たちは、ペトロ達11弟子を探そうとしていないし、ペトロ達に伝言するようにも言っておりませんから、婦人たちに復活を伝えるだけで十分だった と推察できるのではないでしょうか?。

 さて、婦人たちはこの出来事を伝えるために、11弟子たちを探さなければなりません。11弟子たちは、十字架の出来事の後、たぶん目立たないように、そして助け会うために、2,3人ずつに分かれて逃げていたと思われます。

 

推察してみますと、「イエス様が復活された」との天使の言葉を、婦人たちは弟子たちを見つけては伝えたのでしょう。残念ながら、これを聞いた弟子たちはだれも、信じられなかったのです。復活されたイエス様をその目で見るまでは・・・ 

しかし、ただペトロだけが危険を冒して、墓を見に行きました。墓を調べた結果、亜麻布しか残されていないことを確認して来ます。このことを知った弟子たちは、それでも、イエス様が復活されたことを信じなかったのです。

 ペトロはどうでしょう?ペトロは、一人立ち上がって墓へ走りましたが、イエス様の復活を信じての事でしょうか?聖書にはそのことは書いていません。しかし、ペトロは十字架の出来事の前に、「イエス様に死んでもついていく」と言いましたが、実際は逃げてしまっていました。イエス様は、ペトロについてこのように言っておられました。『22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」』。このように、イエス様は厳しい現実を教えられます。そして、イエス様が捕らえられたとき、ペトロは3度イエス様ことを「知らない」と言ってしまったのです。ペトロは、イエス様の言葉が実現していく様子を自らの「知らない」という言葉で、3度も体験したわけです。そのときペトロは外に出て、激しく泣いたのです。泣くしかなかったのです。ペトロは、この体験を通して、自分の弱さを思い知らされました。だから、今度は危険を承知で、墓に行って調べたのです。他の弟子たちは、ペトロに続きませんでした。ペトロが帰ってきて、弟子たちに墓の様子を報告したのでしょう。しかし、ペトロ自身もそれ以外の弟子たちも、イエスは生きておられることを喜んだとの記事はありません。イエス様の復活に確信を持てずに、塵尻になっていった そのように思われます。

 聖書には、その様子の一端が書かれています。ルカ24:13にありますが、二人の弟子が、エルサレムから11kmほど離れたエマオの町に向かって歩いているところにイエス様が現れます。二人の弟子は、イエスは生きておられるとの天使の言葉を、知っていましたが、エルサレムを離れようとしていました。

ルカ24:21『わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。』とあるように、この二人の弟子のイエス様への期待、イスラエルの解放が十字架刑によって、夢破れていたのです。イエスは生きておられるとの天使の言葉を信じずに、落胆していました。ペトロが墓を調べたことも知っていましたが、それでもエルサレムの都から抜け出そうとしていたのです。イエス様の言われた十字架の出来事と三日後の復活について、この二人の弟子たちは、聞いてはいたものの信じていなかったのです。ペトロたち11弟子も多分同じように、イエス様の言葉が実現したことを信じられないがゆえに、エルサレムのどこかに隠れていたと思われます。そして、ころあいを図ってエルサレムから逃げ出そうとしていたのだと思われます。

 この時はまだ、弟子たちは、イエス様から聖霊を頂いていませんでした。ですから、イエス様への信仰がより強められるまで、時間が必要だったのです。

 

 今、この物語に出てくる婦人たちのように、「イエスは生きておられる」という天使の言葉に驚き、そして、現実にイエス様のご遺体がなくなった状況を考えてください。私たちが、それを仲間に伝えたとします。仲間からは、「たわごと」、と言われるでしょう。

私たちクリスチャンは、このイエス様の復活を信じていますが、うまく説明ができません。どうしたらイエス様が復活されたことを信じてもらえるでしょうか?このように、イースターの出来事を、お伝えすることには困難が伴います。

 

この墓に行った婦人たちも弟子たちや仲間たちに一生懸命説明したのでしょうが、だれもすぐには信じてくれなかったと思われます。しかし、ペトロは動きました。ペテロの場合は特に、自分の犯してしまった出来事のことがあります。「イエス様を知らないと言った」出来事。この出来事への負い目がありましたから、ペトロはイエス様に従って行きたいと、願っていたに違いありません。そして、捕まって殺されるかもしれないとの恐怖心と戦っていたと考えられます。

その時、ペトロは、今こそイエス様に従う時と思ったのでしょうか? すぐに飛び出して墓に行きました。そして、そこには亜麻布しか残っていませんでした。空になった墓を見たペトロは、イエス様がイエス様の言葉の通りに復活したとは、信じられなかったのです。ペトロ自身、どうすればよいかを考えつかなかったのだろうと思われます。ですから、弟子たちは塵尻にエルサレムを離れようとしていました。復活したイエス様をその目で見ていなかったからです。復活したイエス様を見るまでは、希望が持てずに、故郷へ帰るしかなかったはずです。その証拠に、イエス様の復活を目にすると、弟子たちはエルサレムに集まってきたのです。そこには、イエス様の復活による希望がありました。

イエス・キリストは、十字架に架かり死なれました。私たちの罪のためにです。私たちの罪の贖いとして、イエス様は死なれました。しかし、三日後に復活され、生きて今確かに私たちとともにおられます。

イエス様は、神の独り子、救い主です。救い主イエス様を信じ、罪の赦し、新しいいのちです。イエス様から、天にある御国への希望をいただきましょう。イエス様の御言葉に聴き、イエス様と出会い、イエス様が神様であるとの確信をもちましょう。そのためには、私たちは聖霊により力を受ける必要があります。イエス様の弟子たちもそうでした。イエス様から聖霊を頂くまでは、強くたつことができませんでした。私たちの力では、イエス様の復活を信じること、そしてそれを伝える事は難しいのです。それでも、聖霊の働きによって、私たちにイエス様を信じる力が与えられますから、感謝です。

 

イエス様が十字架で犠牲になっていただいたことで、私たちは新しい命を得ました。そして、イエス様は、復活され、私たちを導いてくださいます。そこには、私たちには気が付かなかった、新しい希望があります。どうぞ、祈って、イエス様に祈って、神様の備えてくださった恵みに与りましょう。イエス様の御言葉に聴き、イエス様に祈りながら、イエス様の栄光を現わす歩みへと導かれて参りましょう。私たちは、イエス様の導きに気が付いていないときから、イエス様は道を備え、私たちがイエス様の御心に従って歩むことを待っておられます。そして、イエス様は、私たちのために、執り成して、祈ってくださってもいるのです。

 

今日の復活物語の後、イエス様の弟子たちは、イエスは生きておられることを見て、または知って、たいへん元気づけられました。イエス様が十字架にかけられたことによって、希望が打ち砕かれ、明日はどこで捕まるかもしれないという絶望的な状況が、いっぺんに変わってしまいます。弟子たちには、「イエス様の復活による希望」が最初から用意されていたのです。それに気が付いてみると、今までの不安は嘘のようです。私たちも同じように、イエス様の用意されている復活による希望。この希望を受け取れるよう、イエス様に祈ってまいりましょう。イエス様は、すでにご用意なさっていると信じて、イエス様に委ねてまいりましょう。