ルカ4:1-13

 誘惑を受ける2

 そこは荒野で、食物もない場所でした。アダムが蛇に誘惑されたエデンの園とは対照的です。イエス様は孤独で、疲労し、空腹な状況で誘惑を受けました。ですから、この条件で敗北した悪魔は、イエス様に勝つことは無いと言えます。

1.食欲による誘惑

 40日間の断食の後、悪魔からの誘惑を受けながら、彼は飢えに苦しんでいました。このとき、イエス様が死に近づき、悪魔は初めての誘惑をします。彼は神の子であるとバプテスマのときに宣言され、まだ行使していないものの奇跡的な力を持っています。そして、悪魔はイエス様の力を自身の空腹のために用いさせようとします。この誘惑の根底にあるのは、「自分は生きなければならない」というものです。この原則にのっとると、より良く生きるとの欲が加わり、最後には、最高に良く生きなければならないことになっていきます。悪魔がこの啓示を与えているのです。神の啓示では、真理と正義のために死ぬことを選ぶこともあります。だからイエス様は、食欲の声に耳を傾けるのではなく、神様の声に耳を傾け、その啓示のもとに生きる決意を表明されたのです。申命記『8:3 ~人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』 と書かれています。 食欲が人間の唯一の欲求ではなく、霊的にも食物より高い助けを必要とします。そして、神様の言葉だけにそれを見出すのです。

2.野心による誘惑

 マタイではこの誘惑をここではなく、最後に書いています。おそらくルカの順番よりも正確だと思われます。なぜなら、イエス様は究極的に、全世界の王となるためにやってきているからです。メシアは飢えながらも、荒野で食べ物を出し、大宴会を開くことはせずに、神様の啓示に従ったのです。その啓示のうち最も重要なものは、イエス様が世界の征服者、支配者となることでありました。ですから、世界的な帝国が彼の正当な野心と言えます。

 そこで、悪魔が彼を誘惑します。悪魔は彼をある山の頂上に連れて行き、人が住む世界のすべての王国を一瞬のうちに見せました。次に彼は、これらの王国の正当な支配者であると主張します。もし、イエス様が野心的ならば、悪魔の主権を認め地上の王にふさわしい敬意を払って、すべての王国をイエス様のものにしようとするだろうと考えたのです。この誘惑にのるだけで、最も簡単に野心を満足させることができます。自己否定も自己犠牲も精神的負担も必要なく、ただ悪魔に少し敬意を払うだけでよいのです。世俗的な人なら大歓迎するような条件でした。しかし、イエス様はその条件を拒否しました。彼は悪魔を世界の正当な支配者と認めなかったのです。悪魔を、簒奪者として扱ったのです。そのため、イエス様はこの悪魔に腹を立て、申命記『6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。』

     『10:20 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。』とこの世の裏切り者に敬意を払うことなく、ただ一人神に仕えようと宣言します。

ここには、壮大な自己犠牲の精神を見ることができるかもしれません。イエス様はこの世に王国を求め、手に入れますが、それは悪魔と妥協することではありません。悪魔が提案する方法で野心を満たすよりも、自ら死に至るまで苦しみ、神様のみ旨に従おうとするのです。

3.図々しく誇示したい誘惑

 メシアとして、イエス様はご自分の公的な仕事を始めるにあたり、どのような手順が良いのかを考えなければなりません。当然、イエス様は認識していたに違いありません。そして今、悪魔は、「もしイエスが神殿の屋根から身を投じ、神の子としてそれを行うなら、人々はイエスをメシアとして歓迎するだろう」と唆したいのです。ですから悪魔は、神の子であることを試させようと提案します。「天使が信者を支え、石に足をぶつけないようにする」(詩篇19:12)という約束を試してみるべきだと。それは、信仰ではなく図々しく事を運ぶことであり、その結果を誇示することへの誘惑でした。イエス様は、信仰によって生きることを決意していたので、図々しいことは避けて当然です。イエス様は図々しいやり方で神様の支持を求めることはありません。そして、そのような誘惑をはねのけ、神の子であることを僭称(せんしょう)しませんでした。そのため、イエス様は自分の仕事にそのような図々しい精神で臨むのではなく、その悪魔をこのように言って、神殿から追い出したことがわかります。

申命『6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。』

これは、メシアの仕事を始めるための良い方法でありました。このような誘惑は、私たち自身の経験にも少なからずあります。私たちは、食欲、野心、そして図々しさによって誘惑されるのです。私たちはイエス様と同じ精神で敵に対抗しなければなりません。神様の言葉からの適切な引用は、神様の裁きがどこにあるかを示しています。そして、私たちは裁きに使う剣をしまっておいて錆びつかせるのではなく、常に準備しておく必要があります。

 最後に、危機が去ったとき、天使たちがやってきてイエス様のために奉仕したという事実に注目しなければなりません。天使たちが何を運んできたかはわかりません。(マタイ4:11,マルコ1:13)おそらく、食べ物だったのでしょうが、いずれにせよ、イエスがこれまでに口にした中で最も楽しい食べ物となったと思われます。そして、エリヤのように神の山や荒野ではなく、荒野から人間の賑やかな場所に、御霊の力を借りて向かったのです。一方、悪魔は、イエス様を堕落させるために最悪の誘惑を「完了」させ、イエス様を一時的に自由にさせます。悪魔の絶え間ない策略や罠から意図的に解放され、自由を勝ち取ったことは、神様のみ旨にかなったものだったに違いありません。ですから、もし私たちが忠実にイエス様を見習って悪魔の誘惑に抵抗するなら、わずかながらでも悪魔からの猶予を得られるでしょう。