ルカ6:20-26

 祝福される人悲しい人


 イエス様は、弟子の中から12弟子を選ぶために山に登って祈りました。その後、山から下りてきたところに、群衆が集まってきて、教え始められた場面です。

 これからの伝道を担う12弟子を選んだその節目での教えですから、弟子たちに与えられる使命にかかわることも含めて、弟子たちを教えたのだと考えます。ですから、ここから始める「幸いと不幸」、「敵を愛しなさい」、「人を裁くな」、「実によって木を知る」、「家と土台」はイエス様の教えの中心だと考えるべきです。

特に敵を「愛しなさい」※は、イエス様だけの言葉であります。(マタイ5:44、ルカ6:27、6:35のみ)


※)旧約聖書の教えは「隣人を愛しなさい」(レビ19:18)です。その隣人を敵まで広げて「愛しなさい」と教えたのは、イエス様だけです。



1.祝福される(新共同訳:幸いな)人


 イエスさまは、平らな所におりてきています。平らな所とは、群衆との関係を象徴しています。そこでイエス様は、貧しい者、虐げられている者を見下ろすのではなく、同じ目の高さで群衆と接しているわけです。ですから、イエス様が弟子たちに教えようとすると、目を上げなければなりません。そして、イエス様と群衆を見下ろしている弟子たちに教えました。


『6:20~「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。』

 貧しいとは、「物乞いのような」貧しさのことを指します。ですから「酷く貧しい人は、神の国では祝福される」と読めばよいでしょう。マタイ5:3では心(精神、霊)の上での貧しい者としていますが、ルカでは、経済的な事だけを指しています。


そして、この言葉と同じ趣旨の言葉を、マタイ19:24やマルコ10:25と同様にルカが記しています。

ルカ『18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」』

 イエス様は、「金持ちはそもそも神の国に行けそうもない」とのお考えです。金持ちのお金は貧乏人から搾り取ったお金であれば、当然のことです。逆に、搾り取られるだけで、誰からもむさぼることが無ければ、神の国に近いのだと言えます。神の国では、この世の貧乏は、悲しいことではないのです。


『6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。』

 今、空腹な人、そして泣いている人。十分に食べられない事や、泣くような事があるのは、この世では決して祝福されているとは言わないでしょう。しかし、神の国に行くと、今この世で飢えている者が満たされ、今この世で泣いている者が笑うようになるのです。


『6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』

 預言者たちは、神様の言葉を取り次ぎましたが、人々はその都合が悪い言葉を無視し、ののしりました。それでも、神様の言葉を取り次ぎ続けると、人々は預言者を憎み、汚名を着せました。また、今ここには人の子(神の子であるイエス様)の御用のために働く弟子たちがいます。このように神様の御用にあたっている人は、この世で追い出されようとも、神の国に行けば幸いなのです。地上で人から受けた誹(そしり)は皆、神の国に行くと、報いとして祝福に変えられられるのです。


2.悲しい(新共同訳:不幸な)人


『6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。』 

 神の国では、この世で富んでいた人、満腹している人、笑っている人は、悲しいことになります。なぜなら、この世ですでに祝福を受けていたからです。この世で手にしていた祝福ですが、神の国に地上の祝福を持っていくことは出来ません。そして、地上で富んでいた、満腹した、笑っていた その理由によって、報られるでしょう。


『6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。』

 この世の中で、人にほめられて悲しくなるでしょうか? そんなことはありません。だれでも、人に褒められて嬉しいものです。しかし、それは神の国に行くと、良いことではないのです。すべての人からと言っても、それは神様以外からほめられて喜んでいることになります。神様からほめられているなら喜んで良いでしょう。しかし、神様からほめられてはいないのです。


 まだあります。人からほめられた時、神様の祝福として受け止めて、神様を讃美したでしょうか?感謝の祈りを捧げたでしょうか? 人からほめられると、自分にその原因があると勘違いして、自分の栄光を讃美したのではないでしょうか? 昔の偽預言者たちも、そのようにして、神様を顧みず、偽預言者の栄光を表そうとしました。ですから、人から褒められて喜んでいるあなたは、神様のことばを取り次ぐことも、神様の栄光をあらわすこともしなくなるのです。

 つまり、神様を愛しているとはいえないのです。自分をほめてくれる人々を「誉めてくれるからとの理由で」愛している。そんなことであったら、とっても悲しいですね。