マタイ11:1-24
洗礼者ヨハネとイエス
1.洗礼者ヨハネとイエス
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
バプテスマのヨハネは、このことを聞くために、弟子をイエス様のところに行かせました。ところが、イエス様は、妙な答え方をします。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。・・・」と、イエスともノーとも言いませんでした。実は、3章ではヨハネ自身が、イエス様が神であるということを証ししているのです。
『3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。~3:17』
イエス様がしたことを牢屋の中で聞いたヨハネは、確信を持ちたかったのでしょう。イエス様は、「ヨハネが牢屋で聞いたこと」が本当になのかをヨハネの弟子たちが見て、それを伝えることが一番良いと考えたのだと思われます。そこで、しるし(癒し)が行われていたからです。
2.ヨハネのこと
イエス様は、ヨハネの弟子たちが帰ってから、ヨハネについて説明をはじめました。イエス様の言う荒野とは、ヨルダン河畔の荒野です。そこには、かつてバプテスマのヨハネがいて、悔い改めのバプテスマを人々に授けていました。
『3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。』
エリヤとは、メシアが来るための準備をすると預言されています。その預言の旧約の記事を参照して、イエス様は「バプテスマのヨハネはエリヤである」ことを説明します。
3.天の国が襲われている?
一つの都市国家が敵に襲われるときのことを引き合いに出して、今の天の国の状態をイエス様は説明しました。街を大勢で取り囲み、一気に襲い掛かる姿を想像してください。バプテスマのヨハネが活動をしていたとき、大勢の群衆が悔い改めのバプテスマを受けようと集まりました。真剣にそして情熱的に殺到したのです。そして、いまここでは、イエス様が同じように多くの群衆に取り囲まれています。
4.今の時代のたとえ
「耳のある者は聞きなさい」このことばは、イエス様が良く使われます。信仰をもってよく聞きなさいとの意味に考えてください。 さて、この子供たちは誰のことでしょうか?
律法学者とファリサイ派の人々のことです。バプテスマのヨハネやイエス様が活動しているなか、多くの群衆たちは 喜んで バプテスマを受け、そしてイエス様の話を聞きました。しかし、律法学者とファリサイ派の人々は、不機嫌な子供のようにして、だれも喜びませんでした。そして、その不機嫌な子供たちは広場に座って、『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』と文句ばかり言うのです。(律法学者たちとファリサイ派の人々は、群衆に働きかけても相手にされなかったのでしょう。群衆は、イエス様にだけ殺到するので、彼らは喜んでいなかったのです。)
そればかりか、その不機嫌な子供たちは、ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言います。 言いがかりですね。そして、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言ます。ただの中傷でしかないのです。多くの群衆たちがヨハネやイエス様に集まるのを広場で眺めている律法学者とファリサイ派の人々は、この様にしらけ、そして神様に対する情熱を冷ややかに眺めていたのです。
『しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」』
イエス様は、ヨハネの弟子たちに目で見たイエス様の働きを伝えるように言いました。この働きが、何よりの証拠だからです。そして、人々も正しい方に導かれるべきなのです。
5.悔い改めない町を叱る
コラジン、ベトサイダは、ガリラヤ湖の北岸です。ましてや、カファルナウムは、イエス様の伝道の中心地です。
これらの町で、多くのしるしを見せたイエス様ですが、悔い改めることのない町に対して、不幸だと嘆くのです。フェニキア(異邦人)の町シドンやティルス(Tyrus 英名Tyre)の町の方が、悔い改めただろうと言います。ソドムは、ロトの妻の物語で出てくるような、乱れた町ですが、同じしるしを見ていたなら、滅ぼされなかっただろうというのです。