詩編19:1-15

神・主・贖い主 

  詩編19編は、前半(7節まで)は自然賛歌の様に見え、後半は律法の歌です。また、前半はエル(神:אֵ֑ל)が、後半はヤハウェ(主:יְ֝הוָ֗ה)が使われています。だから、異なる二つの詩が合わされたのだとも言われます。

 

1.天と大空/昼と夜

すべての物を神様が造られました。ですから、天体は神ではなく被造物です。19編はその被造物を通して、創造主である神の栄光を称えています。

 作者は、「話すことも、語る事のない」天を見ながら、「神の栄光を物語る」のを聞きました。また、「声は聞こえない」大空をみて、神の御手の業が示されていると感じました。その聞こえない声は、ある日の昼は次の昼に教訓を伝え、ある日の夜は次の夜に知識を送ります。

 その「聞こえない声」は、全地に響いて神が造られたこの世界の隅々まで届きます。その世界の果てに神は、太陽の幕屋を設けられました。その太陽が昇って沈む様子は、花婿が天蓋から出るような、そして勇士が喜び勇んで道を走るような勢いです。そして、太陽の熱はすべての物に届きます。

2.律法

 主の律法とは、モーセを通してヤハウェが下さった「モーセ五書」の主の言葉のことです。当時は、まだ聖書として編纂されていませんでしたが、パピルスの巻紙に記されている主の「律法」を読んでいました。そして、その「律法」は完全なもの、魂を生き返らせるものと賛美をするのです。「律法」の「定め」は知恵を与え、「命令」は喜びを与え、「戒め」は清らかで光を与えます。この確信は作者が「定め」「命令」「戒め」を守らなかった経験をもち、「定め」「命令」「戒め」に立ち返ったからこそ持ち得るのでしょう。つくづく主の「律法」の正しさを実感し、その完全であることに主を畏れたのだと思われます。ですから、お金では買えない価値があって、そして密より甘いのです。古代においても甘さは憧れでした。というよりも、現代よりも甘いものが貴重でした。金も貴重でしたが、密への、甘い物への憧れと比べようもありません。体が、欲しがるのですから。

そういう「律法」への経験を通して、私たちは神様の「僕」であることが、分かって来るのです。自分自身が、この世界の主人であるかのように勘違いをして、自己を中心にして、主をおろそかにして来た愚かさと惨めさ。それに気づいたとき、完全なる主の律法が指し示された時、「僕」としての自分の本来の姿を取り戻したのです。そして、今後は熟慮し、主の「律法」を読みつつ生きることを誓います。

「主の定め」、「命令」、「戒め」を守って生きるとは言いながら、知らず知らずの過ちや罪もありますので、その清めには主が必要です。それだけではありません。私が驕らないように、驕りから引き離して下さい。かつて驕っては背きの罪を重ねました。主が私を支配してくだされば、背きの罪から清められ、私は完全になれます。(完全な人になると言う意味ではありません。完全になるとは、主の僕となることをさします。)

3.贖い主

 作者は、その祈りにおいて「わたしの贖い主よ」と言っています。「贖う」とは、元の意味からすると、奴隷であった者を買い取って(他の犠牲を差し出して)自由にすることです。私は既に主の奴隷として生きようとしています。

この「贖い主」とは罪の奴隷になっている人間を、自由の身にしてくださるイエス様のことです。また、その贖いは、イエス様の十字架の犠牲によって齎されました。ですから、この詩は『天地の創造主は贖い主であることを歌っています。天地を創造して自然を支配する神が、同時に「律法」を定めた主(ヤハウェ)であり、罪の奴隷である人間のために自ら犠牲となる「贖い主」(イエス様)である』ことを宣言しています。

4.贖い主イエス

 詩編19編は、ヨハネによる福音書の言葉(下に記載しました)が、話すことも語ることもないのに感じる響きだと思います。そして、光であるイエス様は創造の時からおられました。創造の業をなされた神なのです。また、律法を与えた主でもあります。そして、ついには私たちの罪を贖ってくださる贖い主となられたのです。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。