ルカ20:27-40

生きている者の神

2021年 11月14日 主日礼拝

生きている者の神

聖書 ルカによる福音書 20:27-40

今日は、ルカによる福音書からサドカイ派の人々との問答について、御言葉を取次ます。(この記事は、マタイ22:23-33マルコ12:18-27にもあります。)

この極端な問答について、理解するには、まず、当時のユダヤの結婚についてお話しておかなければなりません。レビラート婚と言いますが、夫に先立たれた寡婦が夫の兄弟と結婚する習慣がありました。亡くなった夫の家がなくなることなく、跡継ぎを残すための習慣といえます。聖書の中では、申命記25:5-10に律法として書かれており、ルツ記にあるボアズとルツの記事がその実例です。

 サドカイ派の人々はイエス様に、レビラート婚をした人の死後の復活について質問をしました。どうしてこのようなことを聞くのでしょうか?。サドカイ派の人々の教えでは、死者の復活を否定しているはずです。これは、想像でしかありませんが、「救世主がやって来て人々が復活する」と信じているファリサイ派との論争の中で、得られた成果だったのだと思われます。つまり、「死者が復活することはない」ことを主張する質問だったのです。少なくとも、「ほとんど現実味のない想定」なので、問題解決や勉強のために聞いたのではないことが分かると思います。ですから、わかりやすいですね。サドカイ派の人々は、イエス様に「死者が復活することはない」ことを認めさせようとして質問したのです。

その論法ですが、「もし復活が本当に起こるとしたら、こんな矛盾が出てしまいますよ。」といった、所謂背理法による証明です。その矛盾とは、復活した女は複数の元夫と夫婦になろうとすると多重婚となり、律法違反になることです。だから、「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」と聞いたわけです。  

同時に7人の兄弟の妻になるのであれば、それは姦淫の罪を犯すことですし、長男が夫になるとすれば、他の6人の兄弟がその女の夫であったことを無視することになります。サドカイ派の人々は、神様から頂いた律法が完全で、全く間違いのないものだと言う考えを持っています。ですから、夫と結婚して姦淫の罪になる事も、夫が妻と暮らせなくなる事も、「復活」という有り得ないことを前提とするから起こる矛盾だと言うわけです。つまり、「死者の復活はない」ことを証明できたと考えているわけです。少し、突飛な論理だと思われますが、そこには、もう一つの前提があります。サドカイ派による律法の解釈です。サドカイ派の人々は律法のプロですから、自らの考えについて、矛盾を起こす原因になりえないと決めつけていたのです。彼らは、「死者の肉体の復活」についてイエス様に問いただしましたが、「死者の霊の復活」については、全く言及していません。それなのに、「死者の肉体が復活する」という前提だけで、「死者の復活」を議論していたのでした。そして、「死者の肉体が復活する」と起きる矛盾を指摘して、「死者の復活はない」と主張したわけです。

このサドカイ派の人々の主張は正しいのでしょうか?疑問です。というのは、単純に「死んだ人が命と肉体を取り戻して、生きていた時の様に生活する」という前提がいつの間にかに出来上がっているからです。このようなことは、モーセ5書には書かれていません。その律法にないサドカイ派の人々の解釈を前提にすると、サドカイ派の人々の言うように矛盾が出ます。ということは、「死んだ人が命と肉体を取り戻して、生きていた時の様に生活するのではない」ことが証明されたことになります。イエス様は、その点について、このようにお答えになりました。

 

 『20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。』

 

 イエス様は、サドカイ派の人々の問いに対して、「復活する人々は、元の結婚相手と結婚する」とした理解が正しくないとして、「復活した人々は結婚することもない」と説明しました。それでは、復活した後の人々は、どういう人たちなのでしょう。イエス様は続けます。

 

『20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』

 

 復活した人々は、永遠の命をいただいて、もう死ぬことは無いとイエス様は言われました。ですから、サドカイ派の人々が考えているような、再び肉体を持つようなことではないようです。イエス様の福音を頂いた者は、イエス様の復活によって神の子であると宣言されたので、永遠の命を頂いて天使のようになるのです。

 

さて、聖書が書かれた根源的な考え、「人の死と結婚の関係性」についてお話したいと思います。このイエス様の教えの根本には、「人は死ぬから、命をつなげるために結婚しなければならない」という考えがあります。ですから、「復活した人が死なないのであれば、結婚は必要がない」ということが言えるのです。アダムとイヴの犯した罪によって、死を背負うことになった人間です。そのときから、結婚が必要になったのです。そして、イエス様の福音を受け入れた人々は、復活するとき、永遠の命を頂くことによって死から解放され、また結婚からも解放され、天使の様になるのです。

 

さて、天使と言っても宗教的絵画に描かれている、羽の生えた子供のような姿を思い浮かべますでしょうか? 新共同訳聖書の用語解説には、この様に書かれています。

『◆天使(てんし) 神から派遣される使者。天上で神に仕え,人間の目に見えないが,特定の人間に現れて,神の意志を伝え,あるいは人間を守護し,導く(マタ 1:20,21,ルカ 2:9-15など)。「ガブリエル」「ミカエル」など名前を持つ天使もあった。新約では悪魔も堕落した天使と信じられている(2ペト 2:4,黙 12:7-12)。旧約で「主の使い」と言われるとき,多くの場合,神と同一視されている(出 3:2など)。』

これを読んでみると、神様の周辺で神様の御用のために、人々を導く。私たちも、復活の時にそのような働きをする者になるのだとイエス様は教えられていることがわかります。

 

さて、話はモーセの時代に飛びます。モーセは、シナイ山で柴(しば)が燃え尽きないのを見たとき、神様の声を聴きました。出エジプト『3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。』

 

イエス様は、この聖書の箇所を引用して「死者が復活する」ことをモーセが示していると言われました。モーセは神様の命令によって「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とイスラエルの民に伝えました。どうして、それが「死者が復活する」事の証明になるのでしょうか? イエス様は教えます。

『20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」』

 アブラハムの神は、死んだ者の神ではなく、生きているアブラハムの神。イサクの神は生きているイサクの神。ヤコブの神も、生きているヤコブの神。そのようにイエス様はすべて現在形を使って言われるのです。3人とも、昔の人物であり肉体的には死んでしまっていますが、その魂は生き続けているという意味なのでしょう。ということは、死んだ者が魂においては復活していることになります。しかも、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とは、神様の言葉であります。神様ご自身がアブラハム、イサク、ヤコブに今現在も未来も寄り添い続けていることを宣言していたのです。神様は、生きている私たちを養って、導いているように、肉体を失った後も天使のような存在として、私たちの魂を導き、そして生かしてくださるのです。

このイエス様の言葉は、「地上の命を終えても、命の源である神様と結ばれた者は、アブラハムたちと同様、神様によって生きつづける」と言っておられるのです。 神様は永遠の命の源であり、永遠に生きておられる方、「永遠にある」お方です。従って、この神様を信じて、神様につながる者は誰であろうと、肉体的に死んでも復活し、生き続けます。

地上の命を終えたら、次は永遠の命が与えられ、神様と共に生きます。このように、永遠に生きておられる神様と結ばれ、神様に招き入れられた者は、生き続け、2度と死ぬことはありません。だからイエス様が言われたように

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。

 

このイエス様の教えを聞いて、律法学者の中には「立派な答え」だと思う人がいました。たぶん、ファリサイ派の人なのでしょう。一方で、サドカイ派の人々は、もうイエス様に無理な質問をして困らせようとはしなくなったようです。

サドカイ派の人々は、死者の復活を否定していました。復活を否定することは、神様が「永遠にある」お方であり、神様が永遠に生きておられること、また死の中からでも新たな命を創造することができることを否定することになります。それでは、神様は全能でないと言っているのと同じです。さらに、私たち人間に永遠の命を与えてくださる神様の大きな愛も、否定することになります。サドカイ派の人々は、聖書に精通していましたが、どこか自分の理性に頼りすぎています。神様の業である復活を認めないで、自分の納得感を優先させてしまっています。それでは、神様を信じているのではなく、神様の力を侮(あなど)っているとしか言えません。地上で多分見ることが出来ない天使や、自分の理解が追い付かない死者の復活を否定していたサドカイ派の人々のこの物語は、現代の私たちにも通じる所があるような気がします。

例えば、聖書に数多くある奇跡物語です。これを、理性的に読み込んで、「そのようなことが起こるはずがない」と言い出したのでは、サドカイ派の人々と似ていると言えます。聖書には、神様のなせる業として、私たち人間ではできないことが引き起こされていることが繰り返し書かれています。その奇跡物語を理性で受け止めようとして、これは「神話」にすぎないと割り切る方もいるでしょう。つまり、実際は起こっていないことだったり、誇張されたりし過ぎた物語なのだから、その記事に悩まされる必要が無いとしてしまうのです。その態度は、「信じる」ことをあきらめているように見えます。この様に「神話だ」として、完全否定してしまうならば、聖書の奇跡物語の部分を飛ばして読むようなことになってしまいます。 そうなると、読み手にとって、聖書は信仰の本ではなくなります。たぶん、「神話」の部分を除いてしまった聖書は、まるで道徳の本の様になってしまうでしょう。そんなことでは、イエス様を信じる信仰を育てることが難しくなるのではないでしょうか?

 

N・T・ライトと言う神学者が書いた『クリスチャンであるとは』と言う本があります。「あめんどう」という出版社で売っている本です。この中に、こういう内容が書かれています。

「福音、すなわち創造者である神がイエスにおいて実現したことの「よき知らせ」は、まず何よりも、すでに起こったことに関する知らせである。その知らせに対する最初にして最も適切な反応は、信じることである。」

 

信仰は理性ではないのですね。私たちは、神様を信じ、そしてイエス様の福音に与って、最初に信じる。そして学ぶ。また祈る。それが大事なのです。サドカイ派の人々以上に現代人は、自分の考えや理性にこだわると思います。しかし、理性的に分からない福音も、分かる福音もありますので、分からないところは、イエス様に祈りながら聖書を読むことをお勧めします。神様は、永遠に私たちの神様であり、私たちが生きるために必要な神様なのです。必ず神様は、理解と信仰をバランスよく与えてくださるでしょう。