ルカ5:1-11

 漁師を弟子にする

ゲネサレトとは、町の名前です。ガリラヤ湖の北西にあり、この周辺をゲネサレト地方と呼びます。ガリラヤ湖は,捕囚帰還後に「ゲネサレの海」と呼ばれるようになり(Ⅰマカバイ11:67)、ヨセフスもこの名を用いています。新約聖書では、このルカ5:1にのみ「ゲネサレ湖」と記されており、この地方は「ゲネサレ湖畔」と言われていました。カファルナウムは、弟子ペトロの家があり、そこを拠点にイエス様は伝道をしていました。ベツサイダは、弟子になった漁師アンデレ、ペトロ、ピリポの故郷であるガリラヤの町です。


1.朝から群衆が・・・

 

群衆が神様の言葉を聞こうと、イエス様のところに集っています。イエス様が湖畔に立っているところを見つけて押し寄せたようですが、朝の散歩か瞑想の最中だったのでしょう。群衆も朝起きてから、イエス様を探したものと思われます。漁師のペトロ(シモン)は、投網(マタイ4:18、マルコ1:16)漁を終えて、網を洗っています。漁師の常識として、日が登ると魚が取れなくなりますから、朝になると網を洗ったり、補修したりしていて、仕事はそれでおしまいになります。魚は、一晩中獲れなかったので、これ以上さらに条件が悪いところで粘る気はありません。ペトロは、イエス様から舟を出すように依頼されますが、そういう理由から引き受けます。イエス様は、舟に座って群衆を教えだしました。なぜ、イエス様は舟にのって湖からお話をしたのでしょうか? その答えは、群衆に囲まれて押しつぶされてしまうのを防ぐためです。(マルコ3:9) と言うことは、100人以上もの人々が朝からイエス様を探して押し掛けるほど、群衆は神様のみ言葉を聞きたかったことになります。また、イエス様のお話は、その群衆を満足させるものであったと言えるでしょう。

 

2.ありえないことを・・

 

 どのくらいイエス様はお話したのでしょうか? 話し終えた時にはすでに、日は高かったと思われます。その時、イエス様は、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言います。プロの漁師であるペトロから言わせると、イエス様はとんでもない指示をしています。また、プロの漁師が一晩中漁をして獲れなかったわけですから、さらに日が高くなって魚はすでに物陰に隠れているからです。

 そこで、ペトロは言います。

『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』

 先生と訳されているのは、エピスタータ(ἐπιστάτα:首長、司令官)という言葉です。明らかに、いやいや従っていることがわかります。舟をポイントまで移動させ、網を打ちそして、また網を洗って乾かさなければなりません。それでも、漁師たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は、舟を出しました。網を下すと、たくさんの魚を囲み、網を上げることが出来ません。もう一艘の舟にも手伝ってもらってようやく引き上げると、舟は魚でいっぱいになり、網もやぶれました。とてもあり得ない事でしたが、ペトロの行動によって、この奇跡はもたらされました。

※1項で投網と説明しました。ここでは網を投げるのではなく、下すとなっています。刺し網だから下したのかと言うと、そうではなさそうです。刺し網を引き上げるためには、舟が二艘以上必要だからです。もう一艘は、網が上がらなくなってから手伝ってもらっていますから、やはり投網だと思われます。

 

3.イエス様に従う

 

 『彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。』

 シモンは、イエス様の指示通りに網を下しましたが、ある程度の疑いを持ちながらの行動であったのでしょう。しかも、考えられないくらいの大漁です。一体何事がおこれば、このようなことになるのでしょうか?先ほどは、司令官と呼んでいたのに今度は、主よ(キュリエ:κύριε)とイエス様に呼びかけます。イエス様の偉大な力を見せつけられ、「やれるもんならやってみな!」的な態度をとったペトロ自身の行動を恥じたのでした。そして、ペトロは、自身が罪人であることを告白しました。

 こうして、この3人はイエス様がシモンに言われた『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』との言葉を受け入れたのです。彼ら3人は、生活の手段である舟、投網、家族などすべてを打ち捨てて、イエス様に従いました。イエス様を主として受け入れ、そしてイエス様のために働くことを決意したのでした。