ルカ17:20-37

 神の国はいつ来る?

 

・人の子:救い主のこと、またイエス様はご自身の事を人の子と呼びました。

ダニエル書『7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。』

・人の子の日:イエス様は、神の国の完成の時を、「人の子の日」と呼びました。他の箇所(1コリ5:5、1テサ5:2、1テサ5:4、2テサ2:2、2ペト3:10、黙1:10)では、「主の日」が使われていますが、同じ意味です。

 「主の日」は、この世界が、終わる時でもあります。神様の救いを受け取らない人々は、この世界とともに永遠の滅びへと入ります。そして、イエス様を通して神の国へと入った人々は、完成した神の国に入ります。その日を、「人の子の日」であるとイエス様は言っているのです。


1.神の国はいつ来る?

 

 ファリサイ派の人々のイメージする神の国は、ローマの属州となってしまっているユダの国の解放なのでしょうか? イエス様は「見える形では、来ない」と教えます。少なくとも、ファリサイ派の人々の想像している国の形ではないようです。「あなたがたの間」と訳されていますが、使われているギリシャ語は「真っ只中」を表す言葉です。その意味するところは、「あなたがたの心の中に神の国はある」ということでしょう。

 『17:25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。』

 主の日のその前に、イエス様が十字架にかけられ、殺されることになっています。そして一度地上を去ったイエス様が、もう一度この地上に戻って来る時(再臨)を待たなければならないのです。

2.救われるための条件

 続いてイエス様は、再臨はノアの洪水の時や、ソドムとゴモラが滅ぼされた時のように起こると言っています。ノアの洪水が起こる時も、ソドムとゴモラに火と硫黄が降った時も、人々はそんな災いが自分らの罪のために起こるなど考えもせず、罪深い日常生活を送っていました。そして、全てが滅ぼされたのです。その中で、ノアとロトは救われました。ノアとロトに罪がなかったと言うわけではありません。我々人間と同じ罪人でした。しかし、彼らは神様に従ったのです。ノアは神様に従って箱舟を作り、それに乗りました。ロトは御使いに導かれて町から出ました。

 私たちが神の国に入るための条件も同じです。神の国に入るために、神様の御心に適った良い人間になる必要があったとしたら、私たちは誰も神の国に入る事は出来ません。だから、神様は、「イエス様を信じ、受け入れ、ともに歩もうとしたら、私たちを救うことにした」のです。

3.一人は連れて行かれ、他の一人は残される

 『17:31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである』


 終わりの時が来るとき、人々は日常生活を送っています。そして、命からがらの状態であっても、持っている財産と自分の命を守ろうとします。ですから、その財産への未練のために、かえって命を落とすのです。また、ロトの妻は、「後ろを振り返ってはいけない。」との神様の命令に背いて、後ろを振り返り、そのために塩の柱となってしまいました。せっかく滅びの町から出たのに、今までの生活と別れがたくなって振り返ったのです。

『17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。』

 誰が救われ、誰が救われないかという事は、誰にもわかりません。しかし、イエス様がもう一度この地上に来られる時、それが明らかになります。神の国が来る時は、救われている人にとっては喜びの時ですが、救われていない人にとっては恐ろしい裁きが待っています。その恐ろしい将来におびえるようにして、弟子たちはイエス様に尋ねます。

『「主よ、それはどこで起こるのですか」』

『イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」』

 死体のある所には、何処であってもハゲタカは集まります。つまり、「どこで?」との弟子の問いに対して、イエス様は「どこでも起こる」と答えたわけです。そしてハゲタカが集まる理由は、死んだ動物がいるからです。霊の死んでいる人には、どこであってもハゲタカが寄ってきて、連れ去ろうと・・・。

 それは、恐ろしいですね。条件さえそろえば、いつでもイエス様は戻って来るのです。さきほどの条件も、すでにもう揃いました。いつ再臨があってもおかしくないのです。ですから、私たちの周りにいる一人でも多くの人たちを、イエス様へと導くことが必要です。