エフェソ5:1-20

愛されている子ども

 

1.愛のうちに歩む

『5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい』

 「倣う」は、「模倣する」とか「真似をする」という意味です。パウロは、「神様の真似をしなさい」と言っているのです。私たちは神様に愛されている子供です。「神様の愛が、キリストの犠牲によって私たちの罪をすべて赦してくださった」。この事を、私たちは知っています。ですから、この神様を父として、よく観察し、それを真似て愛をもって歩むことができるのです。

 そしてパウロは、「愛のうちに歩みなさい」と勧め、そして「みだらなことや汚れを避けなさい」とも勧めています。愛とみだらなこと等は正反対の事です。愛に歩むものは、神の国を受け継ぐことができます。 一方で、パウロは、『 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者』の事を、「偶像礼拝者」と呼びました。神でないもの(性、汚れ、物等)を礼拝しているのです。ゆえに、神の国に入ることはできません。だから、とても深刻なことであり、口にすることさえいけないのです。

 救いは神の恵みであり、信仰によるものです。しかし、悔い改めて行ないを改めようとしないのであれば、本当の意味で神様を信じていないのと同じです。ですから、行いも信仰の一部と言えます。

2.光の子として歩む

 『5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。』

 ここの暗やみは、神様についての知識を拒んで、心がむなしくなっている様を示します。しかし今は、主に結ばれて、光となっています。キリストによって神様の知識を知り、神様のいのちの言葉を得て、私たちは新しい人に変えられました。

『――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――』

 私たちが光である神様とキリストを知ったことによって、善意と正義と真実を知ります。しかし、私たちは、この世において、絶えず、暗やみのわざの影響の下にいます。ですから、私たちは、神様に喜ばれることを見分ける事が必要です。

 けれども、私たちの歩みは暗闇を避けるだけでは、いけません。私たちは、光として、暗やみを照らしていく必要があります。明りで照らすと、人々は光のところに来るようになります。自分の行ないに気づき、悔い改めて、神様を信じるようになるようになるのです。

3.賢い人のように歩む

 『5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。』

 パウロは、エフェソの信者たちが、アルテミス神殿のある町の異教的な社会の中にいることを念頭に入れて話しています。不品行や汚れが充満し、口に出すことさえも恥ずかしい暗やみのわざを行なっている者たちがいます。そのような町に住んでいる者にとって大事なことは、賢く歩むということです。とくに罪でも、肉の行ないでもない事柄であっても、気をつけなければなりません。悪魔が見ていて、神様のわざを邪魔しているからです。今は、悪い時代なので、周りに合わせるのではなく、神様のみ旨に聞くべきです。

 『5:16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。5:17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。』

  「霊に満たされる」という言葉を、クリスチャンはよく使います。感情的になって理性を失うことが「霊に満たされる」ことではありません。霊は、知恵の霊なのです。(イザヤ書『11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』)

 私たちは自分の知恵で考えていると、疲れてしまいます。知恵を尽くせば、苦労も増えるのです。そこで、私たちクリスチャンは、神様の霊に求めることができるのです。神様の霊が私たちを満たされるとき、私たちは、神様からの知恵が与えられます。そこでパウロは、「霊に満たされなさい」と勧めています。

『5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。』

 私たちは賛美によって、心が満たされます。声に出さなくても心の中で歌うこともできます。そして、賛美は、イエス様のみ言葉を知ってイエス様を信じる私たちの、神様への感謝でもあります。