ヤコブ1:19-27

聞くだけではなく

   ヤコブの手紙は、諸説がありますがイエス様の兄弟ヤコブまたは、その弟子が他国に住んでいるユダヤ人(ディアスポラと呼ばれていました)の信徒に向けて書いた手紙です。 

イエス様の弟子たち特に中心的な使徒の多くは、サウロがキリスト教(当時は、ユダヤ教の一派)を迫害した時も、エルサレムにいました。サウロに追われたのは、ステファノに代表されるギリシャ語など外国語を話すユダヤ人でした。ヤコブが殉教(紀元62年)するころも、エルサレムの教会はユダヤ教の中にあり続けました。当時のエルサレムの教会では、イエス様の兄弟ヤコブは中心的存在で、キリスト教を信じる者の心の支えでありました。

  ヤコブの手紙は、国外に住んでいるユダヤの民のキリスト教徒に向けて出され、ユダヤ人が共通に向き合っている試練に焦点をあてたものです。ユダヤ戦争と言う、ローマ帝国を相手にした戦争が(ユダヤ戦争66年-73年)始まろうとしていた頃で、熱心党(ゼロテ党)と呼ばれる過激な律法主義者のグループがローマに対して暴動を起こしていました。神学者(ラルフ・マーティン)は、このヤコブの手紙の教えについて「ローマに対する反乱の発生に先立った、エルサレムの中や周囲におけるゼロテ党の暴力に対して語られた。」と仮説を立てるほど、熱心党(ゼロテ党)の活動が激しかったという事です。

主の兄弟ヤコブは、「神の支配を打ち立てるためなら暴力も用いる」と言う熱心党の主張に、反対していました。実際に主の兄弟ヤコブが殉教したのち、エルサレム教会はローマとの戦争を避けたのでしょう、エルサレムを脱出します。この経緯からすると、ヤコブは、熱心党を意識して、この手紙を各地の教会に送ったのだと思われます。

1.ヤコブの指示

『聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。』ヤコブは、こんな指示を出しました。つまり、「聞くのに遅く、話すのに早く、また怒るのが早い」との指摘です。当時、ユダヤの民はローマに反発していました。それは、「税金」、「皇帝を礼拝するように」との命令が基本的に不満の対象です。また、ローマ総督がしばしば事件を起こしました。一方で、ローマは、熱心党が暴動を起こすと厳しく処罰しましたので、その対立は日に日に厳しくなってきました。

 人の話はよく聞かないで、自分の言いたいことだけを言うのは、人の性です。そこでヤコブは、『人の怒りは神の義を実現しない』と教えます。「怒り」では、悪意が前面に出てしまって、決して相手を良い方向に導くことはできません。それで、『悪を捨てて、御言葉を受け入れなさい』と命令するのです。私たちの心から出た言葉は、汚れているのですから、神様から出たみ言葉を話すべきなのです。

  そしてヤコブは続けます。『聞く人ではなく、行う人になりなさい』ヤコブは、み言葉を聞いてもそれを行わない人を、鏡に自分を写して眺める人に譬えています。み言葉と言う鏡で自分を映し出すのは良いのですが、み言葉を聞く時だけの事です。み言葉としっかり向き合って、身についている者であれば、み言葉を行える機会に忘れることがありません。そして、それは幸せな事なのです。

2.信心深いと思って

ヤコブは、行うよりも舌が先に動くのであれば、信仰は無意味だとまで強く断言します。舌は、あたかも私たちが信心深いように話すことが得意です。そうして、私たちの心を欺くのです。そうして出来上がった、信心とは舌先の世界であって、行いとは関係がありません。むしろ、舌は行いをしない「いいわけ」が得意なので、舌を制しなければ意味のある信仰はもたらされません。

  ヤコブは、信仰が意味あるものとなるために、2つの行動をするように命令しています。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」、「世の汚れに染まらないように自分を守る」この2つです。どちらも、特別なことではありません。弱い者に対する保護。そして、み言葉を守ろうとする具体的な行動です。舌では、この2つの行動を起こすことが出来ません。

 この命令には、当時のこの群れの特殊な事情があります。キリスト教徒の多くは共同生活をしていたわけですが、そこには富のある人も貧しい人もいました。この共同生活は、舌では支えられません。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」ことが、日常の課題となっていました。教会に集まっている大勢の人が共同生活をしています。支える人と比べ、支えられる人が多いのです。動ける者は、食事や世話にすぐに動かないといけません。手を差し伸べることなく舌を使っているならば、たちまち皆がおなかをすかしますし、また弱いものが放っておかれてしまいます。

また、ローマとの関係が悪くなる中で、信仰を守ることとローマと戦うことが同じ意味になりつつありました。戦争へとの機運があると、純粋に信仰とみ言葉に基づいた生活を守ることが難しくなってきています。ヤコブは、こういったことに巻き込まれないように指導し、あるべき行動を指し示していたのです。なぜなら、ユダヤ教の指導者たちは、ユダヤのあらゆる人たちを結集させて、ローマと戦う準備をしていたのでした。エルサレム教会にも、そういう話が来ていたと思われます。しかし、エルサレム教会は、この戦争に加わりませんでした。

罪深い私たちには、ヤコブのような強い信仰を持つことは困難です。それでも、イエス様に祈り、イエス様にすがったときに、イエス様は私たちにその強い信仰を与え「み言葉を行う人」とならせてくださるでしょう。