使徒2:43-47

エルサレム原始教会

 

1.エルサレム原始教会

 

 イースター後、やがて彼らはエルサレムに集まって「エルサレム原始教会」が立ち上がります。当初の担い手は12弟子です。マタイ27:5では、イスカリオテのユダは自殺していますが、他の福音書にはそのような記載はありません。使徒言行録1:18には、ユダがいなくなったので12使徒の補充がなされていますから、少なくとも使徒言行録のその記事の前にユダは亡くなっていたものと思われます。

 この当時は、教会と言っても家の集会です。その家の集会がいくつか集まってエルサレム原始教会が形成されていったと思われます。エルサレム原始教会は、ヘレニスタイと呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人が増え、2つに分裂していきます。そして、ペトロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、イエスの弟のヤコブによる指導体制になります。そして、ヘロデ・アグリッパ一世によって、迫害されます。(異邦人に門戸を開いたと言う理由)その結果、ゼベダイの子ヤコブは殉教しました。その後パウロの刑死、主の兄弟ヤコブの処刑と続き、ユダヤ戦争を前にエルサレムから消えています。おそらく、異邦人の教会に散っていったものと思われます。

 

2.ユダヤ教イエス派

 

 エルサレム原始教会やそこから派生したアンテオキヤ教会が、ユダヤ教イエス派の中心でありますが、そのほかにイエス様の語録を伝承したグループがあります。マタイによる福音書とルカによる福音書のみに共通して出てくる言葉に注目して、「イエス様の語録があったに違いない」と推定しました。そして現存しない推定上の資料を、Q資料と名付けています。その関係で、このグループをQ伝承集団と呼びます。この語録をまとめたのは、イエス様の言葉を直接聞いた人たちとなり、必ずしも十二使徒であるという事ではありません。そして、語録はマタイやルカの福音書に用いられたのですが、その強烈な終末期待などの個性があり、エルサレム原始教会とは独立した伝道が行われていたと考えられます。

 

 一方で、マルコによる福音書が書かれた、マルコ伝承集団も、エルサレム教会とは独立して伝道をしていたと思われ、マルコ伝承の中には終末論は出てきません。

 ルカによる福音書と使徒言行録を続けて読みますと、キリスト教はエルサレムから一貫した流れの中で出来上がって来たように読めてしまいますが、この様に多様な集団があり、それぞれが影響しあっていたと言えます。

(以上参考文献:佐藤研 聖書時代史 岩波現代文庫)

 

3.活動の場

 

 家の集会のほか、ユダヤ教のシナゴーもイエス派の活動は行われました。ファリサイ派は、エルサレム神殿における厳粛な典礼のほかに、シナゴー(会堂:犠祭を行わず聖書を教え、祈りをする場。説教もなされた)という研究と祈りの場を中心として宗教生活を営むと言う独自の形態を創始し、広めました。ファリサイ派は、すでにキリストの時代から、特権階級であるサドカイ派のように、ある一つの社会階級や唯一の聖都にのみ結びついていなかったため、イスラエル全体に相当の影響を及ぼしていました。イエス様はその伝道の道すがら、いつもファリサイ人に出会いました。イスラエルでのキリスト教伝道が後に挫折するのも、ファリサイ主義の抵抗にあったためと考えられています。

 エッセネ派は、エルサレムから遠く離れた地で、他派との論争にも加わらずに、独自に生きていました。彼らの中心地は死海にのぞんでいましたが、そのほか国中に支部がありました。エッセネ派は秘的な性格をおびていて、彼らの著述や教義には、その時代のユダヤ教徒の生活全般の特徴、特に終末論的信仰における生き方がよくあらわれています。エッセネ派は数あるユダヤ教の教派の一つです。発足したキリスト教も、エッセネ派の中の一教派であり、同様にバプテスマのヨハネを中心とする一団や、ヨルダン河周辺に拠る種々の洗礼教派もエッセネ派の中の一教派でした。

 一般の民衆は、どの派にも属さないので、みなユダヤ教徒でした。一言でユダヤ教と言いながら、キリスト教が生まれる以前から多様性を受け入れていたのです。

(以上参考 原始キリスト教 マルセル・シモン 白水社)

 

4.エッセネ派の生活(使徒言行録と類似した記載があります)

 

 彼らは、一度もあった事のない者達のもとへ、親しい者のように出入りする。どの町にも、見知らぬ仲間の者たちのために衣類や食事の面倒をみるこの宗団の世話人が特別に任命されている。彼らの間では物の売買はない。各人が自分の所有している物をそれを必要としている者に与え、代わりに自分の必要としている物をもらう。そのうえ彼らは見返りなどなしに、自由に兄弟たちのものを使うことができる。

 (フラウィウス・ヨセフス ユダヤ戦記 ちくま学芸文庫)