マタイ9:27-34

口の利けない人をいやす

   

1.二人の盲人をいや


 二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。

イエス「わたしにできると信じるのか」   二人「はい、主よ」

イエス 二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」  二人 目が見えるようになった。

イエス 「このことは、だれにも知らせてはいけない」   二人 地方一帯にイエスのことを言い広めた。


 最低限の言葉しかここにはありません。いきなり盲人が登場しますが、誰からも盲人とわかる姿だったのでしょうか?イエス様も盲人に対して「目が見えるようになりたいのか?」とは聞きませんでした。イエス様、盲人が目が見えるように願っていることを理解していますし、この盲人二人ともが、「イエス様ならば目が見えるようにしてくれる」と、信じていたのです。そして、いやされました。


そして、「誰に知らせてもいけない」と命令されたので、言い広げてくださいと言うよりも、かえってこの話は広まったと思われます


2.口の利けない人をいや

 盲人が出て行くとすぐに口の利けない人が連れられて入ってきます。ファリサイ派の人々も含めて、そこには群衆が見物していたようです。イエスは盲人をいやしたときから家にいますが、当時は、と言っても、中庭や二階(屋根の上)で生活していましたから、外から丸見えだったのでしょう。また、中庭に入ってきていたのかもしれません。イエス様が悪霊を追い出すと、口の利けない人は癒されました。群衆は驚きましたが、ファリサイ派の人々は、イエス様を「悪霊の頭」のように言います。驚き畏れるよりも前に、ゆがんだ羨望があったのでしょう。素直に驚くことが出来ないのは、イエス様に権威を認めていないということだと思います。では、ファリサイ派の人々の認める権威とは「律法」なのでしょうか。それも、モーセを通していただいた律法(モーセ五書)ではなくて、その解釈や日常の取り決めなどのファリサイ人たちが作ってきた狭い意味の律法だったのです。つまり、ファリサイ派の人々は、ファリサイ派であることそのものが権威であって、それ以外については権威と思っていないところがあるのだと思います。イエス様は、たびたびファリサイ派の人たちに議論を仕掛けられますが、その目的は、「イエス様を言い負かす」ことや「弟子たちの行動を批判」すること、および「イエス様の人気を落とすよう、謀る」ことに中心があります。多くのファリサイ派の人々は、決して、イエス様に学ぼうという態度ではありませんでした。また、イエス様の行われる「しるし」を何度も見ながら、イエス様を権威のある者だとは認めなかったのです。