エゼキエル37:1-28

全ての人の牧者に

2024年 5  19日 主日礼拝 

すべての人の牧者に

聖書 エゼキエル37:1-28       

 今日は、エゼキエル書からみ言葉を取り次ぎます。エゼキエルは、バビロンに捕囚された人々へ与えられた預言者です。エゼキエル書の最も大きなテーマは、「滅ぼしつくされたイスラエルの回復」であります。今日の聖書の箇所にも、「全イスラエルの回復の預言」が語られています。また、「メシアが現れるとの預言」、そして「預言者の役割」が一緒に書かれているという意味で、この37章は重要です。聖書の中で、この三つが揃うのは、極めて珍しいのです。

ちなみにメシアの現れる預言とは、この箇所を指します。

エゼキエル『37:24 わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。』

 預言は、神様の言葉であります。預言者とは、神様が告げた言葉を人々に取り次ぎを担う者であります。ですから、エゼキエルだけではなく、すべての預言者は、自分の言葉を語ることを控えて、純粋に神様の言葉を伝える必要があります。そう言う意味で預言者には、神様に忠実に従う者が選ばれます。

 さて、本日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。今日の聖書に出てくる「霊」という言葉について、お話をしたいと思います。

『37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』

「霊を吹き込む」と書かれている、元のヘブライ語の霊にあたる言葉がルアッハと言う名詞です。その意味は、口や鼻でする息、風、霊、精神です。また、吹き込むと訳されている言葉は、(ボーと言う動詞で、)中に入ることを意味します。ですから、厳密に言うと、この節では息を吹き込むとは言っていません。この新共同訳聖書では、霊が中に入るためには、当然息が吹き込まれているとの理解の上で、訳したものだと思われます。一方で、9節の表現では、明らかに息を吹き付けるとの意味の言葉を使っています。

『37:9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」』

ここで「霊」と訳されている風は、先ほども出てきましたルアッハで、息、風、霊、精神を指す言葉です。そして、「吹き来たれ」や「吹き付けよ」の元の言葉は、(ナファチで、)息を吹きつけると言う意味の動詞です。この2つの箇所から読み取れるのは、枯れた骨には、「霊を入れ込む」と宣言して、その霊には「風となって息を吹き付けよ」と命令しているわけです。そして、息を吹き付けることは生命を与える事を意味します。神様は、まず枯れた骨に「お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、・・・」と命令しました。その通りになっても、まだ骨には霊が入っていません。そして、霊に対して「風になって息を吹き付けよ」と命令したことで、枯れた骨に霊が入り、骨は生き返るのです。この「息を吹き付ける」と言う言葉が最初に聖書に出てくるのが、天地創造の物語であります。

創世記『2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

 このように、天地創造の時から、息を吹きいれることで、物でしかない土の塵にも、枯れた骨にも、霊が入り込んで命が与えられるのです。


ここで語られている「枯れた骨」ですが、「イスラエルの全部族」のことを意味しています。

イスラエルの全部族には、アッシリヤによって滅ぼされた北イスラエルの10部族と、新バビロニアによって滅ぼされた南ユダの2部族があります。全ての部族の多くの人々が、霊から息を吹きかけられました。そして、霊が中に入ると、生き返り、彼らは自分の足で立ち上るのです。霊が入ることによって、枯れた骨であるイスラエル民族が回復するだけではありません。神様は、彼らイスラエル民族を自分の地を与えると約束します(14節)。つまり、民族だけではなく、国も回復するとの約束であります。21節にはこう記されています。

エゼキエル『37:21 そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。』 


37章をこのまま受け止めると、イスラエル民族と国家の回復の預言であります。神様の意図は、イスラエルの完全な回復を約束する事です。しかし主語は、神様でありますから、イスラエルの民が主体となって国を取り戻しなさいと言うお説教ではありません。神様は、イスラエル民族が自覚とか、個人の霊的な目覚めや教会の新生を呼びかけているのではないのです。全ては、神様によって成し遂げられる神様のご計画なのであります。そこに、民の指導者がその思いをもって、民、信徒、教会に自覚を求めたならば、それは神様のご意思に逆らうものであります。なぜなら、この預言者エゼキエルが取り次いだ言葉は、神様の無条件の愛からの約束だからです。そして、それを担うのは神様御一人です。神様御一人の力によって、イスラエルに与えられる土地に全イスラエルつまり、民族と国を回復するのです。しかし、その回復はイスラエルの民が思うような姿になるわけではありません。神様しか知らないのであります。すでに、それは神様によって始められ、そして神様の意図で進められているのです。ですから、この預言を受け止める時に、私たちの浅はかな知恵をもって解釈してはいけません。また、この預言を元に、教会や信徒への自覚を促すのも相応しくありません。この預言は、神様が約束した、神様の計画であります。そして、成し遂げるのも神様だからです。

神様は、この回復のことを「二つの杖を一本の杖にする」(エゼキエル37:16~17)と言い表して、エゼキエルに命じました。この言葉は、一つの国として回復するイスラエルを象徴しています。一つの杖は「エフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族」、もう一本の杖は「ユダの木」で、その両方をつないで、エゼキエルの手の中でこれらを「一本の杖」にまとめるとの神様の約束です。


 先ほど、メシアの預言についてお話ししましたが、その続きがあります。ダビデの末であるメシアが、イスラエルを建て直すとの預言です。

『37:25 彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。』

 ここに、イスラエルの子孫たちが永遠に先祖の地に住んだ結果として、ダビデがイスラエルの民と国をまとめることが預言されているのです。このダビデとは、キリストの事です。キリストこそが、まことのダビデ イスラエルのメシアです。ですからそのダビデが王になる時は、イエス様の再臨の時だということになるでしょう。

さて、その再臨の時、すなわち 枯れた骨に息が吹きかけられて、生き返る時はいつか? そこに興味が行くと思います。まずは、今までにイスラエルの人々がやり遂げたこと。その一つは、1948年にイスラエルが建国した事です。西暦70年のエルサレム陥落と神殿崩壊から約2000年かけて、世界中に散らされていたユダヤ人が、イスラエルに帰還して国を作りました。しかし、これは神様の計画したものかどうかはわかりません。また、浅はかな人間の知恵での強引な建国は、神様の意図とかけ離れたものであるかもしれません。さらに、今イスラエルが起こしているパレスチナへの侵攻と言う名を借りた、人権蹂躙は、神様は良しとはしていないと思います。かならず、神様がそれを正す時が来るでしょう。だから、まだ今ではないと思いますが、枯れた骨である「イスラエル」が完全に生き返る時が来ます。それは、キリストの再臨の時、すなわち、千年王国(メシア王国)が成就するときです。


共観福音書には、再臨の時の様子をイエス様が教えている記事があります。

マルコ『13:24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、13:25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」』(並行記事マタイ24:29-31、ルカ21:25-28)

ここにある「人の子」とは、イエス様の事です。イエス様は、ご自身の事を「人の子」と呼びました。人の子であるイエス様が再びやってきて、人々を集めて何をするのか? 聖書でそれを書いているのは、ヨハネの黙示録だけであります。また、千年王国についても、この黙示録20章だけであります。

黙示録『20:4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。』

 この後、サタンが敗北し、裁きの時となるわけです。このように、いつ再臨があるのかがわからない上に、その裁きのとき、私たちはどうなるのか・・・これもわかりません。「救われるはずだ。」 そう信じるのみなのであります。私たちの救われる根拠は、イエス様が私たちの罪のために、十字架で死に、復活したことを信じたことです。また、信仰を告白し、バプテスマを受けたことです。それしかありません。罪は許されましたが、あいかわらず、私たちは罪人のままであります。また、まだイエス様の事を知らない人々がたくさんいます。だから、イエス様は、イスラエルだけではなく、全ての国の全ての人々を救おうとされているのです。ペトロは、手紙の中でこのように書いています。

Ⅱペトロ『3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。』

 それは「一人も滅びない」ためであり、すべての人が「悔い改めるように」イエス様は、その時を待っているのです。なぜ、イエス様は待つのか? それは、再臨の時がやって来ると、イエス様を信じていない者が裁かれてしまうからです。そうならない様に、全ての人にイエス様の事を伝道するのです。その始まりが2000年前の今日、聖霊に導かれて弟子たちの伝道が始まりました。

この伝道によって、イエス様が全ての人の牧者になるのです。そのために、私たちイエス様を信じる者は、全ての人にイエス様の良き知らせを宣べ伝えるのです。どのくらい、時間がかかるかわかりませんが一人も滅びないで済むように、みんなで福音の業にかかわるならば、その時が早まります。ですから、イエス様の伝道の業。小さいことから手伝って、そして天の国を作る仕事をみんなで担ってまいりましょう。