1.種蒔きのたとえ
『4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、~』
「たとえ」とは、人々の日常生活で誰も体験している事を通して、理解を助けることです。この時イエスは、ガリラヤ湖畔に集まった群衆に「種蒔きのたとえ」を話します。
①ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(芽すら出ることがない)
②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(芽は出るが、根差さない)
③ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。(実が実らない)
④また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。(多くの実りを得る)
2.4つの地とは?
イエス様は、弟子たちにこのたとえの意味を解き明かします。「種」とは「みことば」のことで、「種を蒔く人」とはみことばを与える「神様」、そして種が落ちた「4つの地」とはそのみことばを受け取る人の「心」のことだと言うのです。みことば受け取った人が、どのように聞いて実りに与るか? が大事だというのです。
では、その「4つの地」に譬えられる「心」とは、どのようなものでしょうか。
①道端のもの:すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
②石だらけの所に蒔かれるもの:御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、すぐにつまずいてしまう。
③茨の中に蒔かれるもの:この人たちは御言葉を聞くが、いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
④良い土地に蒔かれたもの:御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
信仰があるからと言って「良い地」とは限りません。私たちも油断すると、いつの間にか、「道端」のように、みことばを聞こうとしなかったり、「石だらけの所」のように、みことばを育てることをあきらめてしまったりするわけです。また、「茨の中」のように、たくさんの別の種を育ててしまっており、みことばを選ぶことが難しくなっています。イエス様は、このたとえを通して、私たちに「良い土地であるように」と言います。
3.三つの視点
このたとえから特に気づかされたこととして、「みことばである種」、「みことばを与える神様」、そして「みことばの実を結ぶ」の3つの点から見てみましょう。
(1)みことばである種
まず1つ目のことは、「みことばは「種」のようなものである」ということです。一粒の種は非常に小さく、求める心がないと見過ごされてしまうと言えます。一方で、種は小さいけれども「大きな力」を秘めています。それは、「人を変えることのできる大きな力」なのです。
(2)みことばを与える神様
次に、「神様は私たちのためにみことばを与えてくださった」ことです。神様は、一人でも多くの人にみことばを受け取ってほしいと願って、どんな土地にもみことばを届けてくださっています。何よりも、神様は、大切なひとり子であるイエス様を「生ける神のことば」として、この世に遣わしてくださいました。
(3)みことばの実を結ぶ
3つ目に、「みことばの実を結ぶ」ことです。種を蒔く人は、豊かな収穫を期待して種を蒔きます。そのように神様は、みことばの種を受け取る私たちが「実を結ぶ者となる」ことを期待しています。私たちにとって「実を結ぶ」とは、「イエス様のように変えられていくこと」であります。みことばに力をいただいて、励まされながら、自分が少しずつ変えられて、成長していくことです。そのためには、私たちはイエス様を通して祈って、私たちの内にいてくださる聖霊の助けを求めましょう。