1.霊的な吟味
キリスト者は周りにいる人が罪を犯したときに、「自らの罪の報いを受けるがよい」と見捨てるでしょうか? 罪は、事実であったとしても、そして裁かれるべきであっても、切り捨てないと思います。
『 6:1~“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。』
「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。」との勧めを実践することが、キリスト者の義務だとパウロは教えます。また、他の人が罪に陥ったのに気がついた人は、高慢な態度をとる場合があります。「私はあの人よりはましだ」と人は考えがちだからです。しかし、それは錯覚にすぎません。なぜなら、私たちはたまたま一点を見ているだけで、ほかの多くの点では、劣っているからです。
『6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。』
教会員が具体的な罪に悩んでいるときに、他のキリスト信仰者がその人の罪を的確に咎められるでしょうか?また、その人を罪から引き戻すことができるでしょうか? 確かに、咎めることはできてしまうのですが、咎めた時点で、その人は心をふさいでしまうでしょう。なぜならば、同じ罪人であるにもかかわらず、上から物事を言うことになるからです。正しくないものが、自分が正しいものとして人を裁く。それは、反発を受けるだけです。そして、咎めるあなた自身も、罪人であることをわきまえずに、人を裁いたのです。それは、さらに罪を犯したことになります。イエス様は、罪がないにもかかわらず、罪人である私たちに寄り添ってくださいました。私たちには、罪があるのですから、イエス様のようにはできません。しかし、私たちは、そういったとき、罪人であるがままの姿で、その人に寄り添うよう教えられているのです。
『6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。』
パウロは自己吟味をしなさいと教えます。しかし、聖霊だけが私たち自身の罪深さ、すなわち「私たちは何ものでもない」という真実を明るみにします。それと同時に「私たちは自分の重荷に対しては、限りなく尊い存在である」という真実もはっきりと示してくださいます。なぜなら、私たちは「神様の愛の対象」として生かされているからです。
ここで次のことを強調しておきます。「隣り人の罪を叱責する者自身も罪深い人間なので、誰も他の人の罪を咎めるべきではない」ということではありません。もしも「完全なキリスト者」にしか私の罪を叱る権利がないのだとしたら、私は地獄の門に行き着くまで、平気で罪を行い続けるようになってしまうからです。その一方で「隣り人と一緒に重荷を担う者は、神様の前で自らの罪についての責任を問われなくなる」という考えかたも正しくありません。最後の裁きの時まで、人は自らの責任を問われ続ける存在なのです。人は、いつか訪れる最後の裁きの時に、神様に対して自分自身のこと、そして重荷について問われるのです。
2.善い行いをしなさい
『6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。』
福音を教わるものは、すべての良いことを教えるものに伝えなさい。つまり、霊的な恵みを受けたならばそのことを分かち合い、共有することを指示しています。福音は、受け取りっぱなしにするのではなく、皆で共有するのです。特に福音を教える者は共有する場が多いので、信徒間の共有は有効であります。
『6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。』
人は、言い訳や偽りの言葉で自分自身や他人を欺くかもしれませんが、それでも、自分の心を知っている神様を欺くことはできません。人が分かち合う義務を果たさないのは、能力の不足からではなく、貪欲さから生じているのです。本当は、自分のまいた種が育って、また収穫できるのですが、その種を惜しんでいるのです。一般的に言えば、人が小麦を蒔くなら、彼は小麦を刈り取り、人が大麦を蒔くなら、彼は大麦を刈り取ります。自分が蒔くもの以外のものを刈り取ることは、誰にも期待できません。そして、それが良い種であれば、彼は良い収穫を期待するのです。そして、彼が豊かに種を蒔くならば、彼は豊かに刈り取るでしょう。しかし、彼が控えめに種を蒔くならば、彼は控えめに刈り取るでしょう。そして、彼が何も蒔かなければ、彼は決して何も刈り取ることができません。これはことわざです。善悪を問わず、すべての行動、およびその結果としての報酬と罰、に適用することができます。
蒔かれた種は、この地上での人間の行動です。もしそれらの行為が単に自己満足のためであるならば、それは、いわば、その所有者が肉体(すなわち、肉欲的な自己)に蒔いているのです。聖霊に種を蒔く者は、その同じ霊が彼らに永遠の命の贈り物をもって、彼らに報いるでしょう。
『6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります』
種を蒔く人がいなければ収穫も得ることができません。それゆえ教会員たちは、教会を教え導くために信徒のみんなが働きやすいように、配慮する必要があるのです。
『6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう』
私たちは「肉に蒔く」のを避ける一方で、熱心に「御霊に蒔く」ようにしなければなりません。ここに全てがあります。ところが、多くの人はこれとは全く反対のことをしています。いただいた恵みを自分の肉に蒔くことばかりに熱心で、聖霊に蒔くことは怠るのです。