2025年 2月 9日 主日礼拝
『わたしはその者を裁かない』
聖書 ヨハネによる福音書12:37-5
今日の聖書は、3週続いて、ヨハネによる福音書からです。ヨハネによる福音書は、ほかの福音書とかなり際立った特徴があります。その特徴の一つが「しるし」です。ヨハネは、カナの婚宴で水をぶどう酒に変えたしるし(2:11)と 王の役人の息子が生き返った(4:54)こと、ベテスダの池でのいやし(5:9)、5千人の給食(6:11)、生まれつきの盲人のいやし(9:7)そしてラザロの生き返り(11:44)等の奇跡物語が書かれています。これらは、ほかの福音書と比べてかなり少ないと言えます。どちらかと言うと、奇跡を詳細に書くよりも、奇跡を体験した人々が信じたかどうかに、焦点をあてていると思います。著者のヨハネ自身が、この福音書の最後に、このように書き足していますから、しるしを厳選したことがうかがえます。
ヨハネ『21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。』
さて、今日の箇所ですが、イザヤの預言した通り、ユダヤ人が頑なだったことが書かれています。彼らの多くは、イエス様のしるしを見聞きしても、イエス様が神の子であり、救い主だとは信じませんでした。その原因の一つが、イエス様はユダヤ人が待ち望んでいた救い主とは違っていたことです。イエス様は、確かに何度も奇跡をもって神の子である「しるし」を見せました。イエス様は、人々に寄り添い、病をいやし、平安を与えてくださる方です。しかしそれは、ユダヤ人の望むしるしではありませんでした。ユダヤ人が期待したのは、「ローマに反乱を起こす救い主」という、穏やかではないものです。ユダヤ人のそうした自分勝手な望みから、ローマへの反乱を起こすかもしれません。そんな事情もあって、この時イエス様は身を隠します。
このころのユダヤ人の様子を ヨハネは『彼らはイエスを信じなかった。』(37節)と記しています。イエス様はこれまで、ラザロのよみがえりなどの奇蹟を行い、自ら神の子であるとのしるしを示してきました。にもかかわらず、ユダヤ人たちは永遠のいのちを与える救い主として、イエス様を見ていませんでした。あいかわらず、ローマを倒してイスラエルを再建するメシアへの幻想を抱いていたのです。ですから、しるしを見ていながら、イエス様の真の姿に目が向かないのです。それは、預言者イザヤによって語られていました(38節)。
イザヤ『53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。』
イエス様がみ言葉を語っても、ユダヤ人は、イエス様が永遠のいのちを与える救い主だと信じなかったのです。その証拠に「イエス様への幻想が夢破れると、群衆だけではなく、弟子たちもイエス様を見捨てています。40節にあるように預言者イザヤは、イエス様による救いを示していました。イエス様の時代から約700年前に、イザヤはこう語っていました。
イザヤ『6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」』
この預言のすぐ後に、イザヤはイエス様の降誕を預言します。つまり、神様はユダヤ人をかたくなにしたことと、イエス様をこの地上に降すとの宣言はつながっているのです。その目的は、「悔い改めていやされる」ためにです。私たちを一時的にかたくなにするのは、全ての人が「悔改めていやされる」ためなのです。
神様は、なぜ耳が鈍く、目が暗くなるのかを語っています。また、ユダヤ人が信じないのは、心がかたくなだからです。「耳が鈍い」「目が暗い」とは、見聞きしても理解できないことをさします。また「心が頑な」とは心が固まってしまい何も動かそうとしないことを指します。つまり、外からの働きかけに対して応じられないのです。たとえ、イエス様の奇蹟や、教えを見聞きしたとしても、それを自分のこととして受け入れず、変わろうとしないのです。そのかたくなさを生み出しているのが、私たちの自己中心的なところです。自己中心。これも罪と認めなければなりません。神様よりも、自分を優先しているからです。神様は、さらに「人々を頑なにする」と、イエス様が生まれる700年も前から宣言していました。全ては、イエス様による救いが成就するためです。
ヨハネの引用したイザヤ書には、『12:40~わたしは彼らをいやさない。』とあります。これは、目先のことを指すので、将来までのことではありません。その時が来たら癒す と解釈してください。ですから、こう言う訳もあります。
ヨハネ『神は彼らの目から光を奪い、彼らの頭を閉ざした。目には明らかではなく、頭では理解できないように。もし、悟ったなら、私のもとへ来る。
そうしたら、癒してあげよう』(ALIVE聖書)
ここで出てくる彼とは、イエス様のことです。彼らがユダヤ人、私は神様です。ヨハネによる福音書では、人々の目を見えなくしたのも、頑なにしたのもイエス様です。(新共同訳は神と訳していますが・・・)
ですから、心を頑なにするというのは単に人間の罪がそうさせただけではなく、人々を滅びから救いたい神様の愛の計画がそうさせたと言えます。神様は、あわれみによって、罪深き人間が助かる道を備えたのです。そして、イエス様は、ユダヤ人の癒しのために、人々を頑なにしました。
このような中、驚くべきことも起きていました。
『12:42 ~議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。』
最高法院の議員は、旧約聖書の専門家です。ここで、信じた議員たちはイエス様の言動を見て、イエス様が預言された方、メシアだと信じたのです。しかし彼らはそのことを口にしませんでしたし、イエス様に自身を託そうともしませんでした。もし「イエスはメシアだ」との信仰を知られたら、イエス様に反感を持っているファリサイ派の人々に咎められるからです。
『12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。』とあるように、地上の地位や名声といったものを失うのを恐れたのです。せっかく目は開いて、そして信じた。しかし、自分の保身を第一としたために、心を頑なにしました。そこで、イエス様は頑なな者に語り掛けます。
『12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。』
身を隠していたはずのイエス様が、ここで行動を起こしたのです。それは、今がその機会であることをイエス様は知っていたからです。つまり、時が来た・・・と。ユダヤ人の救いのために、イエス様はこれまでの教えを再び大声で語ります。それは、滅びからの救いであり、永遠のいのちへの案内であります。神様のみこころは「ユダヤ人が信仰に立ち返って、滅びから救われること」です。その成就のため、イエス様はこれから十字架で犠牲になることを顧みず、救いを語りました。
イエス様はまず、神様からこの世に遣わされたと語りました。そして、
『12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。』と語ります。
暗闇の中では、どこに向かっていたとしても、また、とどまっていたとしても、何が起こるかもわかりません。それと同じように、人は自分の今と、将来については、光がなければ何もわかりません。私たちは、神様から見れば、神様に背いている人間です。それなのに神様は、その憐れみのゆえに、救いの手を差し出しているのです。神様は、人には罪があること、その罪のゆえに滅びなくてはならないこと、そして「イエス様を信じれば、その滅びを免れる」ことを、イエス様を通して明らかにしました。まさにイエス様が光であり、イエス様によって人は救われ、永遠の命に与るのです。
『12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。』
イエス様を拒む者、つまりイエス様の言葉を受け入れない者は、終わりの日に裁きを受けます。それは、神様がイエス様に命じたことですから、神様は「イエス様を拒む者」には有罪を下すのです。
『12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」』
イエス様は、群衆に対して最後にこう言いました。終わりの日に、神様はすべての人に判決を下します。イエス様を拒む者には有罪を、イエス様を信じる者には無罪を申し渡します。有罪の者は永遠に滅び、無罪の者は天の御国で、永遠のいのちに与るのです。ただ、人は本来的に神様に背く罪人ですから、有罪となるでしょう。けれども、神様はそんな罪人を憐れんでくださっているのです。神様はそれでも、私たちを無罪にしたいのです。だから神様はイエス様をこの世に遣わして、十字架で死なせ、私たちの罪をイエスに肩代わりさせました。さらに、死んだイエス様をよみがえらせて天に戻し、『12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない』と宣言してくださっているのです。 神様の喜びは、私たちの幸せです。それは、私たちが天の国で永遠のいのちを得ることなのです。それは、この世での平安をももたらします。神様は「この世を救いたい」と願っています。神様の愛と、イエス様の恵みを感謝して、受け止めてまいりましょう。