1.異邦人のような考え
パウロは、「異邦人」という言葉を使っていますが、これは、「異邦人のような、愚かな考え」という意味合いで使っています。エフェソの信徒たちも、多くがユダヤ人ではなく、異邦人ですが、異邦人だからと言って、愚かな考えの中に生きているということではありません。「神の命から遠く離れて生きている人々」という意味合いであります。ですから、「あなたがた」とは、異邦人たちに向けて、過去の異邦人は「愚かな考えに従って歩み、4:18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」といった状況だったと言っているのです。しかし、今はそこから変えられ、キリストに倣って生きていることを、パウロは前提にして語ったのです。
当時の異邦人の世界は、ギリシャの文化があり、ユダヤ人とはまるで違う世界で生きていました。ギリシャ神話に基づく儀式があり、その神殿があり、そこでは、あらゆる悪が行われていました。そして、ギリシャ哲学など、知的な娯楽がありました。こういったユダヤではない文化の中で、異邦人の信徒たちは、生活していました。ですから、使徒たちは、キリストから学び、キリストに聞き、ギリシャ的な歩みから離れることを教えたのです。
17 節の、「愚かな考え」の「考え」は、ギリシャ語では「思い」であります。ですから、ここで「知性」について話しています。異邦人は神様について無知なのですが、その無知は情報や、知識において無知なのではなく、知ろうともしないという「頑なさ」に由来するものです。そのために、神様のいのちから遠く離れています。
無感覚になった彼らは、放縦な生活をして、あらゆるふしだらな行いに耽っています。偶像を拝むということは、無感覚を呼び起こします。そこで起こっていることは、見えないし、聞こえないわけです。その無感覚によって、自然の感覚があれば、決して行わないような偶像礼拝つまり悪を平気で行っていると、パウロは言っています。
2.イエス様にある真理
「頭であるキリストに向かって成長(4:15)」する者たちにとって、キリストを学ぶことは、重要です。ここで、「キリストから学ぶ」ではなく、「キリストを学ぶ」とあります。イエス様は教師であっただけでなく、イエス様自身が道であり、真理であり、いのちなのです。
異邦人が信者になったとき、信仰による自由を歪めて 自由気ままに生きていた人たちもいました。律法主義を否定した反動で、何をやってもよいという考えです。パウロは、フィリピの信徒への手紙でこのことを嘆いています。
フィリピ『3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。』
パウロはここで言っています。
『4:21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。』
ギリシャ哲学において、「真理とは」と言えば、飽き飽きした議論かもしれません。一方で、キリスト者にとって真理は、イエス様にこそあることを知っています。この方を学び、見倣って生きることこそが、真理を知った者の生き方なのです。
3.古い人を脱いで、新しい人を着る
『4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』
キリストに出あって、私たちの霊は、神様の御霊(聖霊)によって新たにされました。頑な心も変えられ、生き方が変えられたのです。偶像礼拝をしていたころの異邦人信徒は、無知で無感覚でした。しかし、イエス様を知って、その真理に触れると、無知ではなく、そして無感覚ではなくなったのです。そして、律法から私たちは解放されました。それは、何をするのも自由と、都合の良い切り取りをすることではなく、イエス様に倣ってイエス様のようになることです。それに伴って、思いも変えられました。その働きは、神様の御霊に導かれることによって、日々、新しくされています。そこには、神様にかたどり造られた新しい人がいるのです。
その新しい人を身に着けていくのです。その新しい人とは、真理、すなわちイエス様の内にある義しさに基づいています。ですから、私たちはキリストに似た姿に変えられるのです。天地創造の時、人は神様にかたどって造られましたが 、今度は、イエス様の心の中身に倣って、造り変えられるのです。
そして、これまでの古い人は捨てることになります。異邦人が、これまで送っていた、偶像礼拝と、それに伴う無知で無感覚な生活のことです。異邦人たちは、イエス様に出会うまでの間、情欲に突き動かされてきました。情欲は人を欺きます。自分は満たされると約束されていると思い込んではいますが、情欲は偽りに満ちています。そして、人はどんどん無感覚の淵に落ち込んでいきます。だから、その古い自分を脱ぎ捨てるのです。それは、新しい人を着るためでもあります。