1.時とは?
人生にも良い時と悪い時があって、人間はそれに引き渡されてしまいます。その時が何時訪れるのかはわかりませんし、人間としては良い時にとどまりたいのです。しかし、時をなんとかしようと努力することは無駄な努力です。すべてのことは人間の意思に関係なく、訪れます。人間はそれに対してどうすることもできます。世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できません。
時は、真反対のことを繰り返します。植える→植えたものを抜く→植える→植えたものを抜く・・・
この繰り返しは、人が勝手に時期を決めることができません。たとえ、無理に時期を変えたとして、時に合わないことでは、何にもならないのです。
2.時を支配する神
人間が時に対して無力です。時を定めるのは神なのだからです。そのことは11節でコヘレトも言及しています。そして、神を知っている人は、神が喜んで信仰者の願いを聞いてくださることを知っています。神がモーセの祈りや使徒たちの祈りを聞かれたことは、聖書に書いています。同じように神は私たちの祈りを聞いてくださることを私たちは個人的に体験して知っています。私たちはイエス・キリストにあって時を定める神様との交わりの中で運命を切り開くことができるのです。
11節、神はすべてを時宜に適って美しく造られました。神は美しい計画を持っておられます。そして、人間の心に永遠を思う心を与えられました。すべての人は太陽の下の空しい事柄に満足できない。それとは違う、空しくない何かを求める心をもっています。すべての人は例外なく永遠のものを探し求めています。そして、救いを求めています。マタイ7:7に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と書いています。永遠の命は求める者に与えられ、永遠の命とは、神と御子を信じることにあります。
コヘレトも永遠を求めて探究しました。ところが、神の御業の観察に終始し、観察にはきりがありません。すべてを観察できるほど人間は長生きできないのです。
そこで、12-13節で、空しい結論を出します。最も幸福なことは、喜び楽しんで一生を送ることです。それは神の賜物です。しかし、喜び楽しむことは一時的です。やがては、悲しみ嘆く時が回ってきます。だから、喜び楽しめというのは、「喜び楽しむことができるうちに、楽しめるだけ飲み食いを楽しめ」ということになります。
3.時についてコヘレトの結論
14節、人間は神の御業に対してどうすることもできません。好ましい時も、好ましくない時を加えることも、取り除くことはできないのです。人間は絶対的な時の支配者として神を畏れ敬うことが定められていて逃れられるものではありません。イエス・キリストを通して神を知ることにより、神はその時を動かしてくださるのです。
15節、時は回ります。神は前にあったことを、起こします。ですから、あした起こることは、前にあったことです。これを繰り返しているのです。そして、追いやられたものは、求められる時が来て、求められていたものが追いやられるときが来るのです。
16節。裁判では悪人が断罪され、正しい人が勝訴しなければならなりません。ところが、あろうことか裁判官が悪人であり、不正がなされています。17節。「神が裁くと、不正が正される」そして、「神は正義を行う人も悪人も裁かれる」。両者に裁きをくだします。裁きをくださる時、神が定められた時があるのです。
全ては、神が支配していて、正しい者も正しくない者も その時が来ると 裁かれるのです。人は、そのときが来ることを 避けることができないのです。