1.ローマからのユダヤ人の追放
Wikipediaによる記事。
クラウディウス皇帝による1世紀半ばのローマからのユダヤ人の追放
ローマ皇帝クラウディウスによるローマからのユダヤ人の追放への言及。 使徒の行為(18:2 )、およびローマの歴史家スエトニウス(AD 69 –AD122)、Cassius Dio (AD150 –235)および5世紀のキリスト教作家Paulus Orosius 。学者は一般に、これらの参照が同じ事件を参照していることに同意します。
正確な日付は不明です。ユダヤ人のローマからの追放の最大時間枠は、西暦41年1月から西暦53年1月までです。オロシウスによる西暦49年の日付や、総領事による西暦53年の上限の引き下げに基づく推定などのより詳細な見積もりは可能ですが、物議を醸しています。
このイベントの前に、ローマから少なくとも2回のユダヤ人の追放がありました。紀元前139年、ユダヤ人は地元の異邦人の間でユダヤ人化の罪で告発された後、追放されました。その後、西暦19年にティベリウスは、同様の理由で再びユダヤ人を都市から追放しました。
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詳細は、不明ですがこの記録を残した3人とも、ユダヤ人が暴動を起こすから追放したとしています。このころは、ユダヤ教とキリスト教ははっきり分かれていませんでしたので、ユダヤ人を対象としたのか、ユダヤ教の新しい宗派であるキリストの教えに従う群れを対象にしたのかはわかりません。
2.アキラとプリスキラ
コリントでパウロが出会った、アキラとプリスキラは、よい同労者でした。パウロがコリントを出るときに、プリスキラとアキラは同行しました。そのあとの足跡はわかりません。ここで注目すべきは、コリントを出るときには、夫人であるプリスキラを先に書いていることです。想像でしかありませんが、プリスキラが自分の家を開放して、パウロに伝道させたので、家の教会ができていったのではないでしょうか? 昼は、一緒にテント造りをしていますから、仕事の合間と安息日をもパウロの伝道に協力したのだと思われます。
3.異邦人への伝道へ
シラスとテモテがマケドニアから戻ってきて、パウロは伝道を本格化します。しかし、マケドニアでもそうだったように、ユダヤ人からは反発されました。ユダヤの伝統とは異なるパウロの教えは受け入れられなかったのです。ユダヤ教では、律法を守ることが義であるとされています。しかし、パウロはイエス様を信じる信仰によって義とされると教えているわけです。そして、サドカイ派の人が認めない、死人の復活です。イエス様が十字架にかかったのちに、復活したことを証し、イエス様を神様だと信じることを教えて回るわけですから、ユダヤ人には抵抗が強かったのだと思われます。その一方で、異邦人はユダヤ教への染まり具合が少なかったのか、よくパウロの教えを聞いてくれたようです。パウロ自身も思わず、「わたしは異邦人の方へ行く」と言ったぐらい、反応に差があった模様です。
多くの異邦人がパウロの教えによってイエス様を受け入れ、そして少ないながらもユダヤ人のなかにもイエス様を信じる者が出ました。西南学院の青野太潮先生によると、ルカ(使徒言行録を書いた)は、「調和的な姿勢」で記事を書いているので、何事もなかったように思っても、良く検証する必要があるそうです。パウロは、1年半コリントで伝道しましたが、終わりの時を迎えます。ユダヤ人たちがパウロを襲い、法廷に訴えたのです。そして、パウロはエフェソ経由でシリアに帰るのですが、このような時、ルカはほとんど何事もなかったように記事を進めます。アテネでも、伝道を失敗していますが、信じる者が出たことが書かれていますように、無駄ではなかったとか、行政の理解によって守られたような記事に仕上げているのでしょう。実態は、コリントから追放されたのかもしれないのです。なぜなら、第三次伝道旅行のとき、パウロは「行く行く」と言いながら長らくエフェソにとどまりました。ルカは、エルサレムの使徒会議で、おおもめにもめたことを、何事もなくお互いに納得したように書いている人ですから、追放されたようなことは書かなかった可能性も考えられます。