1.義とされる
『2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。』
パウロはここで、ユダヤ人が罪人ではない、と言っているのではありません。異邦人は神様の律法について無知であるのに対して、ユダヤ人は少なくとも神様の律法の知識がある、ということです。異邦人が罪の意識もなく行なっていた不品行や偶像礼拝は、ユダヤ人は避けてました。それくらいの神様についての基礎的な知識持ち、守っていたのです。
『2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』
神様のことを知っている、神様のおきてを知っているということで、その人が立派なわけではありません。律法は良いものですが、それによって神様の前に正しい ということはできません。自分が罪を犯して、今、法廷に立たされていることを想像してください。そこで罪を立証され、判決が下されました。私は、そこで悔い改めます。そして、贖いと善良な市民になることを誓うでしょう。しかし、自分が犯したという罪状は残るのです。そして、その誓い通りにしたとしても、無罪になることはありません。
パウロがここで話しているのは、このことです。私たちは、神様に対して罪を犯しましたが、私たちの行ないによって、自分を無罪とすることはできないのです。罪は罪として残り、自分は有罪のままなのです。だから、私たちを義と認めるためには、キリストを信じる信仰が必要なのです。私たちが有罪とされましたが、その罰を身代わりに受けてくださる方がいます。それがキリストです。
2.神様に対して生きる
『2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』
パウロが律法によって死んだというのは、それは神様に対して生きるためです。自分が律法に対しては死んでしまったことを自覚しているので、律法ではなく神様ご自身に結びつくことを見出しました。私たちが、行ないではなく信仰によって生きるための道も、ここに示されています。
『2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。』
こうしてパウロのペトロに対する非難は終わります。ペトロへの批判は、律法による不自由からの解放が福音によってもたらされていることを訴えるものでした。福音の真理がいかに律法から人を自由にしたか?そして、イエス様を信じる信仰以外に、自分の罪を帳消しにできる何物もないことを ガリラヤの信徒へ伝えます。
3.イエス・キリストの啓示
『3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。』
これは、このような意味です。「アブラハムが義と認められたのは、彼が何らかの自分の良い行いを積み上げたからではなく、神様を信じたからだった」
神様は、星をアブラハムに見せて、子孫がこのようになると言いました。そのとき、アブラハムは神様のその言葉を信じました。それを神様が、義となさったのです。けっして、「神様は律法に従ったから義である」とは評価しないのです。もし、律法によって義とされるならば、アブラハムが神様の言葉を信じたときではなくて、アブラハムが割礼を受けたときでした。律法によって義とされる神様であるならば、割礼を受ける前にいくら「信じる」と証しをしたとしても、義とはしなかったでしょう。つまり、神様に認められる基準は、割礼ではない と分かります。あくまでも「神様を信じた」そこにあるのです。そこでパウロは、「血のつながりではなくて、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である」ことを示したのです。
ただし、血縁によるアブラハムの子孫、ユダヤ人と神様の関係がなくなったということではありません。彼らは決して見捨てられたのではなく、今もその選びと召命は変わっていないのです。そして、メシアは終わりの日に彼らを救います。しかし、そうであったとしても、彼らアブラハムの子孫も信仰によって義と認められなければなりません。