イエス様の誕生の様子についてはマタイの福音書とルカの福音書に詳しく記されています。興味深いことは、4つの福音書は別の視点から書かれていることです。マタイでは、系図にはじまって、預言されてきたようにダビデの末の血筋にイエス様が生まれたことを示し、そしてヨセフの立場から降誕の物語に入ります。一方で、ルカはマリアの立場からの降誕物語です。そして、マルコ、ヨハネには降誕物語がありません。ヨハネは天地創造の時から始まり、マルコはイエス様のバプテスマから始まります。それぞれの、福音記者は、違う視点を持っていた証拠だと思います。 マタイは、イエス様の誕生のことを 「預言者イザヤが預言したインマヌエルなる方の誕生であると宣言しています。インマヌエルとは「神が私たちとともにおられる」という意味のヘブル語です。つまりイエス様の誕生は「神が私たちとともにおられる」と呼ばれる方の誕生です。これは言い換えれば、イエス様は「神が私たちとともにおら れる」という祝福を私たちにもたらすのです。
1.インマヌエル
その祝福を三つのポイントで見て行きたいと思います。第一は、イエス様のこの降誕は何世紀も前に遡る神様の準備と約束を経て起こったことだということです。23 節で引用されている言葉は、預言者イザヤによって紀元前 8 世紀のユダの王アハズに向かって語られたものです(イザヤ書 7 章 14 節)。イスラエルは当時すでに北と南に分裂していて、エルサレムを首都とする南ユダは危機的状態にありました。当時の世界の覇権はアッシリヤ帝国にあり、これに対抗するため、北イスラエルはアラムと同盟を結びました。しかし南ユダがこれに加わらないため、アラムと北イスラエルが攻撃して来たのです。その時の南ユダの動揺が広がります。(イザヤ書 7 章 2 節)イザヤは、「畏れてはならない」(イザヤ書7章4節)とアハズ王に言いますが、アハズ王はアッシリアと手を組もうとします。すると、逆にアッシリアから攻め込まれます。そのとき、イザヤは裁きを宣告します。
イザヤ『7:17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」』
ただ、そのさばきの宣告の後で、イザヤは預言します。
イザヤ『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』(イザヤ8:8,8:10にもあり)
2.神様が共におられる
第二に見たいことは、ではイエス・キリストがインマヌエルであるとはどういうことか?です。イエス様がインマヌエルであるということは、イエス様によって「神様が私たちとともにおられる」祝福が実現するということです。逆に言えば、イエス様が来てくださらなければ「神様が私たちとともにおられる」という祝福はない ということになります。それは一言で言えば、私たちには「罪」があるからです。創世記から延々と書き連ねられていますように、最初の人間アダムが罪を犯したという出来事に始まります。その結果、聖なる神様は、人間をエデンの園から追い出しました。このゆえに、人間の罪は、あらゆる私たちの苦しみや災いの原因であると聖書は述べています。しかしながら、神様はこのインマヌエルなる方を与えるという約束をし、この方によって「神様が私たちとともにおられる」という祝福を私たちの上に取り戻してくだいました。
さて、神様はどうやって実現したのでしょうか。それは、私たちの罪の問題の解決なしにはあり得ません。それは、罪のない神の子をこの地上に送ることでした。また、神の子は人の子として生まれなければこの地上で共に過ごすことも寄り添うこともできなかったのです。もし普通に生まれた人であれば、それは生まれながらに罪人です。罪びとには、ほかの人を救うことなどできないのです。イエス様は、人として生まれ、そして原罪を持たないまま生まれるために、聖霊によって授けられたのです。
ではなぜ私たちを救う方は、罪のない方でなければならないのでしょう。それは私たちを罪から救い出す方法は、罪のない方が私たちの罪を担い、私たちの代わりに罰せられるという以外にはないからです。罪は簡単に洗い流せるようなものではありません。罪の代償を引き受ける人が必要です。その役割をこの罪のないインマヌエルなるお方が負ってくださる。しかもこの方は神様。神様である方が人となり、十字架上でささげてくださるいのちは世界中の人々を救うことができる力を持っています。そうしてイエス様は、イエス様により頼むすべての人の罪を取り除いてくださることができるのです。そして、罪を赦された者たちの上に「神様が私たちとともにおられる」という祝福が実現するのです。
3.より頼む幸い
三つ目に考えたいことは、私たちは果たしてこの「インマヌエルなるお方に より頼む幸い」を知っているかということです。私たちは一人で生きて行けない弱い者です。いつも誰かに支えられながら生きています。特に困難にある時、自分のそばにともにいてくれる人が一人いるだけでも平安がそこにあります。しかしこのクリスマスの時、私たちに示されているのは、「神様」が私たちとともにいてくださるという祝福です。
この祝福を知っていること、この神様との関係に生きていることは、私たちに大きな祝福をもたらします。なぜならこの方にまさる存在はこの世にはないからです。この方は全能の神様です。その方がともにいてくださるのです。私たちはその方にすべてのことを頼ることができる。その方がともにいてくださることを知ることで、慰めと力を与えられます。私たちがどんなに苦しく、辛く、悲しい状況を通ることがあっても、そこにも神様がともにいてくださるのです。苦境の中で私たちは一人放っておかれるのではありません。神様がそこに一緒にいてくださる。そしてすべてを私たちの益となるように導いてくださいます。
そしてこの神様が私たちとともにおられるという祝福は、素晴らしい状態へとつながります。イザヤ書『60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。』。
神様ご自身が私たちとともにおられて、私たちの嘆きの日々を拭いさってくださる日が来ます。私たちはその御国に導き入れられるのです。