1.前進が後退に
ガラテヤに新たにやってきた教師たちの指導に従って、信徒たちはパウロの福音よりもさらに先へ進もうとしました。しかしその結果、彼らは前進ではなく後退をしてしまいました。
彼らは星を神として仰いでいました。つまりユダヤ教の暦と祝日がそれぞれの日に「何をしてよいか」「何をしてはいけないか」「何をするべきか」といったことに関して指示を下していたからです。それは、律法に基づいて自らの義を追求する姿勢、つまり「異教に似た宗教への回帰」を意味しています。
パウロは「この世を実際に支配しているのはどのような存在か」と私たちに問いかけています。私たち人間は様々な事柄に目を向けてしまいます。なぜなら、それらの重要さが一般的に知られているからです。しかし「何が実際には重要か」「誰が私たちの人生を決めているのか」という問いかけのほうが大切なのです。
私たちが自分の人生で価値を置いているものがどのようなものか、自ら問いかけてみる必要がありそうです。それらに、価値が本当にあるのでしょうか?。キリストの信者も含めて、全ての人間には「ある危険」があります。それは「自分独自の神様を作り上げていく」という危険です。人間には独自の礼拝する対象、自分にぴったりの「オーダーメイドの神」を作ってしまう、誘惑があるのです。
2.友か?敵か?
福音を伝える宣教では、伝道者が抑えるべき大切なことがあります。それは、「福音を聞く側の人々の立場に自分を置いてみる姿勢」です。つまり、「自身の伝道する姿を、目的や目標にしてはいけない」ということです。相手の身になって考えることは、手段の一つにすぎないからです。
パウロの敵対者たちは、ガラテヤの信徒たちをパウロとその教えから引き離そうとしました。もしも敵対者たちがそれに成功していたのなら、パウロの教えはその結果として潰れてしまった可能性もあります。
パウロには、病がありました。パウロの病は癲癇(てんかん)だったのではないかという説もあります。この病については福音書の癒しの奇跡の出来事に多くの例(マタイ:14-18等)が見られます。また、パウロの病は、マラリアも候補に挙げられています。ガラテヤもそこに含まれるパンフィリア地方にはたしかにマラリア原虫を媒介する羽斑蚊(ハマダラカ)が生息していたようです。これは憶測であって、パウロの病が何であったかについては確実なことはわかりません。当時の世界では「病気は悪霊によって引き起こされた」という見方がありました。だから、「悪霊に取り憑かれないために病人からは遠ざかる」というのが人々の一般的な行動でした。それなのに、ガラテヤの信徒たちはパウロが初めて彼らの教会を訪れたときから、彼の病については気にも留めなかったのです。
『4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。』
使徒の正統性を決めるのは? に関連して次の点を考察したいです。パウロが宣べ伝えた福音をガラテヤの信徒たちが無視したからといって、それでパウロの使徒としての正統性が消えるものではありません。パウロのメッセージの正統性は、ガラテヤの信徒たちの好き嫌いに左右されるものではありません。イエス様から、命令され、人々に遣わされた。それだけで、正当な使徒なのですから。ガラテヤの人々が何を言おうと、使徒としての正統性は、揺らぐ事は無いのです。
たとえば、「新約聖書に出てくる教えが、現代の私たちの考え方に合っているかそれとも合っていないか」という基準で聖書を読むことは、あまり意味がありません。それは、よく言うと分析なのかもしれませんが、み言葉を、自分の都合で切り刻んで、都合の良いところだけを取り入れることになるからです。最も恐ろしいことには、神様のみ言葉を、切り刻んで採否を決めるという、とんでもないことをしてしまうことです。つまり、神様によって支配されている立場にかかわらず、神様を裁いている自分がそこにあることに気が付いたのならば、言葉を失ってしまうことでしょう。
『4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。』
パウロは、ガラテヤの人々の前で話しているわけではありません。ですから、どんなに強く語っても、それは伝わらないのです。ましてや、パウロは手紙を書いているわけでもないので、その筆で表現することもできないのです。パウロは、口述筆記と言うもどかしい媒体によって、ガラテヤの信徒への言葉をつなげます。「あなたがたのことで途方に暮れている」これが、精いっぱいの表現だったと言えます。パウロなりに、とんでもないことが起っている・・・その認識をこのように表現したのです。