「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか」とヤコブは問います。迫害を受けているクリスチャンらは、散らされた場所で修羅場の毎日を送っていました。そんな彼らの中には、教師などの皆から認められる地位に着きたいと考える人々がいました。ヤコブはそのような人々に警告します。彼らは心の中では、自分こそ賢いといった自負心を持っていました。そういう考えを持つ人々は、それが原因で、争いになっていたようです。
そんな彼らに対してヤコブは 「13 節 あなたがたのうちで、知恵があり、分別があるのはだれか」と問います。
1.知恵とは
まずヤコブは、「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」と語ります。これは、知恵のある人が、知恵にふさわしい行いをしていないとの指摘であります。知恵が柔和な行いを導いていないという事ですから、人から美しく見え、素晴らしいと思う振る舞いをしていないという事でしょう。それでは、知恵が何に使われているのでしょうか?また、知恵は何のために使うべきなのでしょうか?
箴言『1:2 これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
1:3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
1:4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。』
箴言は、何のために書かれたかの説明ですが、これを読むと確かに「分別ある言葉を理解する」、「諭しを受け入れる」、「知識と慎重さを教える」ためだということです。そのまま素直にこれは知恵の目的と考えると、「人の言葉を理解し、諭しを受け入れ、そして得た知識を広める」そのためにあるのが知恵と言うことになります。ここには知恵を誇ることも、知恵で相手を言い負かすことも含まれていません。同じ箴言から、知恵についてこの様に書かれています。
箴言『1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。』
ですから真の知恵・真の知識を持つ人は、神を知り、人の知恵を重んじるし、その知恵から出る分別を大事にします。その人は、謙遜さ、そして人への優しさを持っている人です。自分を誇ったり、他の人と争ったりするような人は、知恵も諭も侮ります。したがって、そのような人は、神を知らないのか、無知なのです。
2.上から出た知恵
上からの知恵にはどんな特徴があるのかが書かれています。
「純真で、更に、温和で、優しく、従順なもの」です。
これは、神様の性質なのでしょう。私たちには、「不純な動機」で、「不機嫌」だったり、相手への配慮に欠け」た対応だったり、「諭されて」も拒否したりします。私たちには、とてもこの性質を保つことはできません。
しかしヤコブは言います。神からの知恵によって行動する人は、憐みのある行動をとり、そしてそのことがもたらした良い結果に満ち溢れます。なぜなら、知恵のある人は、人を偏って見ることをせず、神様から出た善い事をするからです。見せかけだけの善人とは違って、人の知恵や思いによるのではなく、神様から頂いた知恵で分別し、そのまま行動に移すからです。
ヤコブは結論的な言葉をこのように語ります。
『3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。』
義とは神様が良しとされること、神様が喜ばれる正しいことという意味だと思われます。ですから「義の実」とは、神様がよしとされる結果できる果実そしてその種という事になります。この神様が喜ばれる義の果実は、どうしたら結ばれるのでしょうか?。
「義の実」が出来るためには、まず良い種があって、それが蒔かれなければなりません。ヤコブは、ここで、平和の内にと強調しています。神様のよしとされる実がなるためには、その種(み言葉/神様の知恵)が、あって平和の中でなければ畑(相手の心)に落ちてくれません。もし、怒ってその種を投げつけたとしても、それは畑に蒔かれたとは言えないのです。それが、どんなに正しい言葉であっても、畑に蒔かれないことには実をつける事どころか、種は死んでしまうのです。
そして、平和を実現する人たちが、種を蒔かなければならないとヤコブは言います。この人たちは、「平和」を語る人たちを指しているのではありません。また、「平和」という言葉を使って人々を欺き、人々に従順を求める人々でもありません。神様にその知恵を頂きながら、「平和の実現」に努力する人のことです。汗を流さずに口を動かすのでは、平和の実現はやってきません。「平和」のために、祈り、考え、行動し、汗を流し、知恵を出す人々のそれぞれの働きが「平和を実現」するのです。すなわち自ら積極的に平和を求める人々は、その働きの上でも柔和な行動をとるので、そこに平和が少しずつ実現していくのです。これは、人間の業ではなく、神様の業であります。人の性そのものでは、偏見が元で争いや問題を起こしたり、一方にくみしたり、そこにある対立をあおったり、柔和な行動を忘れてしまいます。これは、人の知恵の限界であります。しかし、神様から真の知恵を祈って、その知恵を頂いているその時、私たちでも平和をつくり出すために気を付け、そして献身的に働くことができるでしょう。