ルカ24:13-35

イエスは生きておられる 

2021年 4月11日 主日礼拝    

イエスは生きておられる 

聖書 ルカ24:13-35

 先週は、イースターの礼拝を持ちました。残念ながらコロナの影響下では、祝会を開くことができませんでした。コロナの対策とコロナの変異の追いかけっこも始まりましたが、うまくいけば来年には普通の生活が戻って来るのではないかと、希望的観測を持っていまいます。皆さん、1年でも早く収束するよう、祈ってまいりましょう。

今日の聖書の箇所は、イエス様の二人の弟子です。一人の名前は、クレオパと言いましたが、もう一人の名前はわかりません。ただこの聖書の箇所からわかることは、この二人はイエス様に最も近かった12弟子の一人ではないことです。この二人はイエス様が十字架に掛けられたところは、遠くから見ていたようです。そして、イエス様が墓に入れられたとき、そしてイエス様が日曜日の朝に復活した時には、その墓には行っておりません。しかし、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアが「イエス様が復活された」と墓にいた天使から聞かされていることは知っていました。そして、どういう用があってエルサレムから旅立ってエマオに向かったのかは、聖書には書かれていません。わかることは、エルサレムから60スタディオン(185m×60≒11km)北西に行ったエマオの街に向かっていたという事だけです。エルサレムが標高800mくらいで、周辺より高い場所にありますから、エマオまでは下りで、3時間くらいの旅になります。エマオの先は貿易港のヨッパまで道が続いています。おそらく、船に乗って遠くに行くような計画だったのではないかと考えられます。復活のあった日曜日に、マグダラのマリア達の話を聞き、そしてペトロが墓に行って確かめたことも聞きました。そして、出発することを決めて、夕方にはエマオについていますから、出発は昼過ぎだったのでしょう。最初からエマオに泊まる予定だったと思われます。次の街道の街リダまでは、倍以上の距離がありますから、とてもその日の内には行けません。

二人の弟子たちは、歩いている最中ここ数日起こったことについて、話し合っていました。「イエスは生きておられる」と聞かされた、その出来事をこの二人はどのように受け止めていたのでしょうか? それは、イエス様が近づいて来られた時の記事で、うかがい知れます。

『24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。』

二人は、話しかけられたのがイエス様であることに、気づいていません。そして、暗い顔をして立ち止まったとあります。このことから、この二人はイエス様が十字架で死なれたことを受けとめることに精一杯で、「イエスは生きておられる」という事について、希望をもって受け止めていないことがわかります。そして、二人の弟子は、誰ともわからないままイエス様とお話をしました。

 

二人の弟子が言ったことは、次の2つです。

1.ナザレのイエスは、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまいました。

2.十字架の出来事から3日たって、婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。また、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。

 

まず、イエス様の十字架の出来事についてです。二人は、イエス様のことをローマ帝国からイスラエルを解放してくれる預言者として期待していたようです。これは、ローマ軍を追い出すための革命を起こす指導者として、良い預言者だと思ったのに、残念だったという趣旨です。

そして、3日後の復活について。この二人はイエス様から受難と復活のことは聞いていたと思われますが、12弟子同様に理解していなかったのでしょう。そういう意味で、婦人たちからの『イエスは生きておられる』との情報には、驚かされたのです。早速その確認のために、何人か(英語でいうsomeone)が墓に行ったと新共同訳は訳しています。原語を見ると、確かな者が墓に見に行ったという事です。もともと、ルカの12節にはペトロが見に行ったと書かれていますので、墓が空だったという事は、事実だといえるでしょう。しかし、この二人の弟子たちは、『イエスは生きておられる』との天使の告げた言葉については、受け入れることができません。そして、その言葉を知りながらも、暗い表情で、エマオの街に向けて下ってきたのです。とても、元気が出てくるような気分ではないのです。そして、これからどうするのか? とりあえず、逃げて、捕まらないようにすることが優先されたのでしょう。エルサレムに戻る。そして、イエス様の復活を確認するという判断には、ならなかったようです。エマオまでは下り道です。二人の弟子は、立ち止まったり、エルサレムを振り返ったりすることもなく、その道を進んでいる間、イエス様に出会いました。そして、イエス様の身の上に起こったことを道すがら、イエス様ご自身にお話したわけです。

 

 イエス様は、この二人の弟子の話を聞いていて、イエス様の教えを十分に理解していないことをなげいて、この様にお話されました。

『24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。』

イエス様は、改めて、丁寧に教え始められました。聖書には3行くらいで書かれていますが、たぶん、2時間近くの間「イエス様のことが預言されている旧約聖書の記事」を教えられたのだと思われます。

ここで書かれているモーセとは、モーセ五書すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。また、預言者とは、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記ならびに、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書などの預言者の書いたと言われるものです。イエス様は、これらの記事を示しながら、ご自身のことが預言されている記事を教えられたのです。

 そのとき取りあげられただろう聖書の箇所を、いくつか読んでみましょう。聖書を開く時間は取れませんので、どうぞ聞いてください。

創世紀3:15『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。』

アダムとエバが、食べることを禁止されている木の実を食べた時、神様はアダムとエバをエデンの園から追放しました。これが、人類最初の神様からの命令違反の記録であります。その時、神様は、エバに対して、この約束をしました。お前とは蛇の事でありますが、蛇の背後にいてエバをそそのかした「サタン」を象徴しています。また「女」とは、直接的には「エバ」ですから、「女の子孫」は「神の民イスラエル」と解釈できます。「蛇の子孫」と「女の子孫」との敵対はこの時に始まって、世の終わりまで継続されます。しかし、蛇であるサタンは、やがてやってくるキリストによって頭を砕かれ、そしてキリストはかかとを砕くことが、預言されています。この箇所は、聖書に書かれている最初の福音です。イエス様の、十字架の出来事を預言したものであります。

 次に 創世紀22:18『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」』

神様の声に聴き従ったアブラハムは、神様から祝福を頂きました。この箇所も、神様が下さった約束でした。アブラハムは、神様に聞き従う者を代表していますので、私たち神様に従う者への祝福の約束であります。

 また、出エジプト記12章「過ぎ越し(the Pascal Lamb)」の約束では、小羊の血を家の鴨居に塗ることによって、イスラエルの民が守られることが約束され、エジプトにいた全ての初子を神様が打たれたとき、その禍から免れることができました。小羊とは、イエス様の事でもあります。私たちはイエス・キリストの十字架で流された血によって、私たちの罪が贖われ、罪が赦されています。そのことは、モーセの活躍した時代から、預言され、約束されていたのです。

 そして、レビ記16章では、生贄による贖いの儀式が書かれています。私たちの罪の贖いのために、旧約の時代では、生きた動物を生贄に供えてきています。そして、イエス様の十字架の出来事では神の小羊であるイエス様ご自身が、その生贄になられたのです。

 申命記では『18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。』

このように神様は、モーセを通して、救い主が与えられることを約束されていたのです。具体的には、イザヤ書にこのように記されています。

 イザヤ『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』

インマヌエルとは、「神は共にいます」との意味です。こうして、神様は私たちと共におられ、そしてイエス様を与えてくださることを約束されています。そして、イエス様の権威についても預言されているのです。

イザヤ『9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。』

そして、イエス様はどのようなお方なのかも、イザヤの中で約束されています。

『53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』

 ルカによる福音書には、イエス様が12弟子たちに自らが犯罪人の一人となる事を説明されたところがあります。

ルカ22:37 《言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」》 この箇所でも、預言者イザヤを通して、神様はイエス様の十字架の出来事を預言していたのです。 イザヤ書には、この様に書かれています。

イザヤ『53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』

 そして、弟子たちが塵尻になってしまうことについても、既に預言されていました。

 ゼカリヤ書13:7 『剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。』

 羊飼いはメシアであるイエス様を、羊の群れは弟子たちを指します。読み替えてみましょう。

「神様はイエス様を打ち、弟子たちは塵尻に散っていく」と言う意味になります。イエス様は、この預言通りに、弟子たちは塵尻に散らされると、すでに予告されていたのです。

 さて、二人の弟子たちは、イエス様のこの教えを受けている間、「こころが燃えていました」そして、エマオにつくと、夕方だったので、先を急ぐイエス様を引き留めて、一緒に泊まろうとします。そこで、食事をするのですが、パンを取り分けるイエス様の所作で、イエス様であることが分かったようです。二人の弟子は、それを見て、イエス様が現れたことを知ります。そして残念ながら、イエス様の姿が見えなくなります。二人の弟子は、エマオに泊まる予定を変えて、エルサレムにその日のうちに帰ります。「イエスは生きておられる」ことを知ったからです。そして、イエス様によって、心が燃やされていたのです。一緒に旅する間のイエス様のみ言葉によって、力を与えられたのです。私たちも、「イエスが生きておられる」ことを確信して、そしてみ言葉を信じるならば、エマオの二人の弟子の様に、心が燃やされるでしょう。「イエス様は生きて、私達の中におられる」のですから。