コリントの信徒への手紙二1:2-17

共に勝利の行進に


トロアス:小アジアの北西部の港町で、マケドニアとの間に航路が開けていました。第二回伝道旅行では、行きの行程で、第三回伝道旅行では往復ともトロアスを通っています。

テトス:パウロの弟子で、協力者であったギリシャ人。『使徒言行録』にはテトスの名前は出てきませんが、『ガラテヤの信徒への手紙』ではパウロやバルナバと共にエルサレムでの使徒会議に参加したという記述があります。

ガラテヤ『2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。』

 パウロはギリシア人であるテトスが割礼を受けずにキリスト教徒として受け入れられたことを強調しています。

ガラテヤ『2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。』

 パウロはテトスを高く評価しており、「仲間」「協力者」と呼びました。また、この手紙をコリントに届けたのも、テトスだと思われます。


1.トロアスにて

『2:12 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、2:13 兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。』

 パウロは、エフェソを脱出してトロアスへと向かいました。マケドニヤ地方にわたる船が出る町です。そこでテトスを待っていましたが、来ませんでした。パウロはそのまま、トロアスの町で福音を宣べ伝えました。(主によってわたしのために門が開かれていました)けれども、パウロはコリントの教会が心配で、不安でいっぱいでした。パウロはテトスが来なかったことで、不安のままマケドニヤに向ったのです。

 結局、テトスが到着したのは、マケドニアに渡った後のことです。すぐさまパウロは、コリントへ向かったかと言うと、そうではなくパウロはマケドニアにしばらく滞在したものと思われます。そのため、マケドニアからコリントに手紙を出したわけです。

2.キリストを知る

 『2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。』

 パウロは、トロアスにいたときは、心が弱くなっており、不安でした。しかし、神様に感謝します。それは、『主によってわたしのために門が開かれていました』とあるように、トロアスで不安にかられてパウロが弱っていても神様が福音伝道の門を開いてくださったのです。そのことを思い出して、パウロは、主にある勝利への自覚と誇りを取り戻します。「勝利の行進に連ならせ」とありますが、勝利を手にした軍隊が、国元に凱旋するときの行進にたとえています。その行進は、屈強な軍隊、戦利品、捕虜を披露するのが目的で行われます。そして、凱旋するときに、香を焚くわけです。パウロは、ローマ軍の凱旋の様子を、自分自身のマケドニアへの旅に重ねています。主イエスキリストの福音を伝道する行進にあって、神様はキリストの香りをパウロの行進の中に備えたのです。ですから、不安でいっぱいだったトロアスでも伝道することが出来ました。そして、マケドニアに上陸した後も、凱旋するローマ軍のように香りを漂わせ、パウロの伝道を助けてくださったのです。

 この行列で、イエス様は戦いの勝利者です。そして、パウロは捕虜であります。キリストの前にパウロは降伏しているからです。パウロはキリストの勝利の行進に加えられていますが、言ってみれば見せしめとなっているわけです。ところが、パウロはそのことをむしろ喜んで受け入れているのです。

 パウロは、自身をキリストに降伏した者として描いています。降伏したのですから、それは惨めなように思えます。しかし、実は、勝利の行進の中に加えられていて、キリストの勝利の凱旋を共に体験していくことができる特権にあずかっているのです。惨めではないどころか、栄光に与る捕虜。それが、クリスチャンの姿であります。私たちはキリストにつながれた者、キリストに捕えられた者です。それは自分自身の痛みを伴う歩みであると同時に、キリストの勝利に共に与る歩みなのです。自分が一番弱っているときに、イエス様が力強く働いて下さいます。だから、自分が不安で心細くなっているときに、イエス様が私たちの働きを祝福してくださるのを見るのです。キリストに捕えられた敗北者であるのに、私たちはキリストの勝利の行進の中を、焚かれる香として同じ道を歩いているのです。パウロはその伝道の過程で受けた迫害や苦しみによって、慰めの神様を知りました。そして、自分を救い出してくださる神様を知りました。

『2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。』

 キリストの福音を宣べ伝えるときに、救いが起こり、また拒む者が起こります。福音を信じた者は、永遠のいのちを持ちますが、拒んだ者は永遠の滅びに至ります。しかしパウロは、滅びる人々に対しても、かぐわしい香りであると言います。パウロは、永遠のいのちを与え、また永遠の滅びに定めるような務めにあずかっています。しかし、その務めにふさわしい人はひとりもいません。パウロは、キリストの勝利の行列の中で歩いている捕虜にしか過ぎません。これが奉仕者の姿なのです。神様のことばに偽教師のような混ぜ物をしてだいなしにせずに、真心から、また神様の権威によって語るのです。 だから奉仕者は、難しいことを考えているよりも、主にあって素直であることが問われます。そして、実質的な働きは、主イエス・キリストご自身がなさっているのです。決して、それはパウロの働きではないのです。今、トロアスにいたときの不安や悲しみの中にいても、なお成し遂げられ続けるキリストのみわざにパウロは気づくのです。