ルカ13:1-17

 悔い改めなければ

 

1.悔い改めなければ滅びる

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」このような記録は、聖書以外には残っていません。史実としてわかっているのは、ピラトがその言行からユダヤ人にひどく嫌われていたことです。また、そのためにピラトはユダの人々を恐れていました。また、ガリラヤでは反乱が何度か起こっていますので、その鎮圧などで、血祭りにあげられた可能性も考えられます。当時は、出陣するときに捕虜を殺すのが習慣でした。イエス様は、その情報を伝えに来た人々に意外な反応をします。普通の反応ならば、「ピラトはなんてひどい人なのか」という流れになると思いますが、イエス様はそうでかったのです。この告げ口は、ピラトとの争いを起こしたくて、イエス様をたきつけているのかもしれません。また、ガリラヤ出身のイエス様に、「ガリラヤ人の自業自得」を言いに来たのも考えられます。イエス様は、犠牲となったガリラヤ人の事を話しだします。イエス様は、「罪のために災難があったのではなく、悔い改めないからだ」と教え、シロアムの塔のことを話しました。

 シロアムの塔は、エルサレムの重要なため池であるシロアムの池にあります。それが、ヨセフスの書いた古代誌によると、このシロアムの塔が倒れたのは、ピラトが関係しています。ピラトは神殿の金(きん)を使ってこの塔を補修(水道工事)していたのです。(古代誌18-60)このことを知ったユダヤの民は、ローマに反発して騒ぎ立てました。結局ローマの軍隊が出動して制圧されました。その時に、工事をしていた18人がその塔が倒れることによって、犠牲になったのでした。そういう意味で、その18人はピラトに味方をしたのだから、自業自得と言われていたのだと思われます。

 イエス様は、その2つの災難について、「自業自得でもなければ、罪のためでもありません」と宣言しました。この告げ口をしに来た人たちですが、「自業自得」で災難があるならば、真っ先に災難に合わなければならないでしょう。イエス様は、「あなた方も悔い改めなければ、同じように災難が起こって滅びる」と教えました。この告げ口をした人たちは、いったい誰なんだろうか?と推定してみます。熱心党の人々は、争いをあおるだろうし、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエス様の群れを中傷しに来るだろうなと言えそうです。


2.「実のならないいちじくの木」のたとえ

 マルコ11:12-14とマタイ21:18-19では、イチジクは呪われて枯れてしまいますが、なぜかルカでは園丁が主人とイチジクの間に入って、とりなしをします。実際、とりなしただけではなく、そのイチジクが本来の姿を取り戻すために手助けをするわけです。主人は、何の収穫もないこの畑であれば、さっさと他の適した作物に切り替えるのが、正しい経営と考えたことでしょう。所謂、損切ですね。すでに始めてしまってることに対して、うまくいくまで我慢強く待とうとするのに対して、損切した方がまた来年、再来年とずるずる決断が遅れて発生する損が出なくて済むからです。しかし、切り倒されるイチジクの木は、実がならなかったことは事実で、負い目はあります。決してわざとではありません。園丁であるイエス様は、そのために立ち直る機会と環境をくださる方なのです。

3.安息日に、腰の曲がった婦人をいやす 

 安息日は、休息を取る日であり、同時に礼拝を守る日です。イエス様は、シナゴーグで教えています。そこに、いやしてもらうために来たのでしょうか?それとも、純粋に礼拝を守りに来たのでしょうか?18年間も腰が曲がったままの婦人が来ました。この物語を見ると、イエス様は説教中にシナゴーグに入ってきたその婦人を呼び寄せます。つまり、説教は中断したわけです。そして婦人は癒されました。目の前で曲がっていた腰を伸ばしたのでしょう。婦人は、18年も腰が曲がったままですから、腰をまっすぐにするための筋肉もやせ細っていたはずですが、大胆に腰を伸ばしました。イエス様の癒しを信じていたからです。そしてイエス様を信じていたからこそ、この婦人の病は癒されたのです。

 このことが、気に入らないのは、会堂司です。そもそも、会堂司が指名してイエス様に宣教をさせていたはずです。それが、途中で放棄をして、安息日なのに癒しを行ったものですから、この会堂司が日頃教えていることを目の前で破ったことになります。しかも、それを破ったのは、教師であるイエス様です。


 会堂司は、礼拝をそっちのけでさっそく抗議します。(これも教えに反しますが・・・)

「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 イエス様は答えます。安息日でも家畜の世話をしている。なのに、同じ民族の娘が18年間もサタンに縛られていた。束縛から解いてあげるべきではなかったか? このときイエス様は、会堂司および多分ファリサイ派の人々と律法学者たちに向けて、偽善者と呼びました。こう言われた方は恥じ入るしかありません。


 いくら律法を守ることを大事にしていたからと言って、人のためにある律法です。また、律法の中で安息日を守ることが重要視されていましたが、安息日は人と家畜のためにあります。ですから、命にかかわることは安息日であっても、家畜の世話を焼いて良いし、癒しを行なっても良いのです。会堂司は、罪をおかしましたが、すぐに悔いました。イエス様は、いつもこのように機会を与えてくださるのです。