Ⅰコリント15:20-28 

 死者の復活

2021年 11月 21日 主日礼拝 

死者の復活

聖書 コリントの信徒への手紙 15:20-28           

先週は、ルカによる福音書からサドカイ派の人々との問答について、お話しました。覚えていらっしゃるでしょうか?レビラート婚をした兄弟たちの妻は、誰の妻になるのかという問いかけに始まった、話題でした。この中で、アダムの罪によって、人間は死ななければならなくなったこと、そして、死ぬからには子孫を残さなければならず、結婚が必要になった事をお話しました。その常識がイエス様によって変えられました。イエス様の復活の出来事と、その復活を信じる事によって、私たちは永遠の命をあたえられ、死ぬこと そして結婚からも解放されます。今日は、そのお話の続きとしてコリントの信徒への手紙一から、「死者の復活」についてです。

 

今日の聖書の少し前の所でパウロはこのように言っています。

『15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。』

 

パウロはコリントの信徒たちのなかに、「死者の復活などない」と言っている人がいることを念頭に、15章の全部(58節)にこの話題を取り上げています。パウロは、一人の死者の復活によってキリストを信じる者に勝利がもたらされると、コリントの人々を勇気づけました。そして、今日の箇所20節から28節はその核心部分であります。 

 

 『15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』

 

パウロはここで、イエス様が復活したことを事実だ。と強調して言います。そしてそのイエス様の復活が、一番先にあって、あとに続く者の道を備えたと断言しています。なぜ、パウロが、この様に強く言うのでしょうか?

その理由について、パウロ自身この様な説明をしています。

 

『15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。』

 

復活されたイエス様に実際に会ったと、パウロが言っているのは、使徒をはじめとする500人以上の兄弟たち。そしてパウロ自身もダマスコで回心するときに、復活されたイエス様にお会いしています。目撃者が500人以上の起こった出来事でありますから、イエス様の復活は事実そのものであります。ですから逆に、「死者の復活などない」と言う考えは、事実とは異なりです。そのようにして、イエス様の復活を全否定するならば、イエス様を救い主ではないと言った主張になってしまいます。パウロが言うように、イエス様の復活はれっきとした事実なのに、イエス様を信じていない人は、事実として受け入れていないのです。このように考えてみると、イエス様を信じているかどうかが先にあって、その結果復活について信じている私たちがいることに気づかされます。ですから、私たちがイエス様の復活を信じる事と、イエス様を信じる者の復活を信じる事は、イエス様を信じることによって齎された副産物ということになります。反対に、「死者の復活などない」という人にとっては、イエス様の復活を信じない事と、イエス様を信じる者の復活を信じないことは、やはりイエス様を信じない事に現任があります。

『15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。』

パウロは、こう言っています。アダム一人の罪によって、神様は人間には永遠の命を与えず、必ず死ぬ運命を定められました。そして、その死はイエス様が解放されたので、すべての人が永遠の命を頂くことが出来るようになりました。イエス様は、死者が復活する時のことを、このように言われています。

ルカ『20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』

パウロのこのお話は、「イエス様こそ救い主であると信じます。」という証しだったと考えてよいでしょう。その証とは、アダム以来の「人間の罪と死」から、イエス様は私たちを解放してくれると信じている事。そして、イエス様は、すべての人を招かれていると信じている事です。このようにパウロは熱心に「証し」をしました。しかし、「死者の復活」を信じない者、つまりイエス様を信じない者は、「キリスト者が復活し永遠の命を頂く」ことを信じないことは明らかです。それでもパウロは「イエス様が復活したことは、すでに起こった事実として、受け入れてもらうために、一所懸命に語りました。

 

さて、パウロはこれまでのお話でコリントの人々には、「イエス様の復活を信じる事の意味」が分かっていただけると考えたのでしょう。話題は、その復活の訪れ方に移ります。

最初にキリストが再臨され、その次にキリストにあるイエス様を信じる者達が復活し、そして世の終わりが来るのです。この世の終わりという言葉を切り取って、なにか悪い事が起こる予告をする人がいますが、聖書に書かれている「世の終わり」には人類が滅亡してしまうなどとは、書かれていません。実際に、聖書の中でイエス様もパウロも言ったことは、最初にアダムの犯した罪の事です。アダムから始まった、人間の罪と死への束縛が最後を迎えることが、聖書に書かれている「世の終わり」の意味です。また、もとっもとは「世の終わり」という言葉ではなくて、ギリシャ語の聖書には、「終わり」としか書かれていません。この世界が終わると言うことは、書かれてはいないのです。

そして15:24に『そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。』と、パウロ自身がその終わりについて説明しています。これは、キリストによってアダムが罪を犯す前の世界、その世界をもともと支配されていた神様に全てが戻されるという考えを指しています。

イエス様は、すべてがイエス様に服従する世界に戻されるまで、働かれます。そしてイエス様によってそれが成就したのち、私たちは最後の敵である死から解放されるのです。そして、イエス様が神様に服従することによって、すべてが神様に服従する元の世界にもどされるのです。こうして、アダムに始まった 罪と死から私たちは解放される。それが、イエス様の説明であり、パウロの持つ信仰でもありました。

 

イエス様は、神様であるのに人間として地上に降り立ってくださいました。そしてアダムの罪から始まる、すべての罪をご自分の身に受けて死んでくださいました。そして復活されたのです。その復活は、新しい創造の始まりです。イエス様はご自身のためによみがえられたのではなく、また、ご自分が支配するキリスト者をよみがえらせるだけでなく、この世界全体を作り変えるためによみがえられたのです。アダムの罪以降、この神様の造られた世界に罪と死の支配が動いてしまったのですが、イエス様の復活以降、この世界に新しい創造が働き始めました。イエス様に救われた者は、復活のときからイエス様のこの新しい創造の働きをするのです。

 

ところで、その復活の時まで、私たちイエス様を信じる者は、安心して天に召される時を待っていればよいでしょうか?

その前に、復活の時、これがいつ起こるのかを理解しなければなりません。ここで黙示録を見てみましょう。キリストがすべての権威と権力を滅ぼし、敵をご自分の足台とされた神の国は、黙示録 20 章によりますと千年間続きます。このことを千年王国と呼ぶ人がいます。千年間の終わりの時に、底知れぬ所につながれていた悪魔が解き放たれます。そして、なんと多くの者たちが悪魔に付き従い、聖なる都エルサレムを取り囲みます。しかし、天から火が降って焼き尽くします。悪魔は燃える火の池に投げ込まれます。

 この黙示録の記事の印象から、世の終わりのイメージがあるのだと思います。本当の意味では、世の終わりこそが「死が滅ぼされる時」でありまして、決して、この世が滅亡するのではありません。今日の聖書の箇所とこの黙示録の記事は、何時その時が来るのかと言う問いに対して、このように答えています。

「キリストがすべての権威と権力を滅ぼし、敵をご自分の足台とされた」

この時こそが、世の終わりを迎える時です。キリストがすべての権威と権力を滅ぼす時、それは、どんなときかと言うといろいろな答えがありそうですが、間違いないだろうという答えがあります。それは、すべての人がイエス様の福音を聞き、信じ、バプテスマを受けた時です。ですから、イエス様を信じた私たちは、復活して新しく生まれかわるために、いまこの世でもできることがあります。それは、福音を伝道することです。

 

私たちが信じるイエス様。私たちがイエス様を信じるのは、イエス様の甦りを信じているからです。イエス様が甦られたその目的は何であったかと考えてみると、神様が全ての全てとなられるためでありました。神様に全ての栄光が行くためです。

パウロは、ローマの信徒への手紙では、この様に書いています。

『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。』

復活の業は、私たちイエス様を信じる者たちのためにあるのではありません。罪の中で死んでいた私たちを復活させることによって、「神様ご自身に」栄光がとり戻されるためです。ですから、神様はその働きのために独り子であるイエス様をこの世に下してくださいました。そして、イエス様は私たちの罪を背負って十字架につけられ死なれて、そしてよみがえられたのです。イエス様は、私たちがイエス様のよみがえりを信じた時に、私たちの罪を赦されます。そうして、イエス様の復活を信じた私たちは、私たちのよみがえりも信じるのです。

 

今日は、難しいパウロの手紙を読み取っていきました。イエス様が復活したことは、事実だとパウロは言いますが、見た、聞いた、触った その体験だと主張しても、そこには証拠はありません。また証人が500人いても、イエス様の復活を信じない者にとっては、幻覚を見ていたのでは?と反論できます。パウロは、決定的な証拠として説明しました。しかし、信じるかどうかは?それぞれの人がイエス様を受け入れられたかどうかです。パウロは、結局、証しをしていたのです。 「わたしはイエス様の復活を信じます。イエス様は救い主です。そして、わたしたちイエス様を信じる者は罪と死から解放されて、永遠の命を頂きます。」と。 このように私たちも証しをもって、周りの人々と交わりたいですね。パウロ程の教養や経験が無くても、みなさんの証しは人々に通じます。そして、「私たちは、イエス様の復活を信じています。」そう証しすることが、私たちの役割なのです。