マタイ6:1-15

祈るときは

2023年 5月 14日 主日礼拝

祈るときは

聖書  マタイによる福音書6:1-15


今週の聖句に、マタイ『5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』を選びました。先ほど司会者に読んでいただいた「施しをするときには」と「祈るときには」の教えでは、イエス様は具体的にどうしたらよいか?を説明しています。そもそもですが、私たち人間は誰でも、自分と自分を愛する者を愛します。そして、自分自身のためと、自分の味方になってくれる人のために祈ります。このことは、当然の事であり、善人であろうが悪人であろうが、みな同じなのであります。ですから、人が自分を愛することについてではなく、敵を愛する、そして迫害をする者のために祈ることをイエス様は教えます。・・・敵を愛しなさいとは、理解はできます。しかし、現実として私たちが出来ることはあまりありません。なぜなら、敵の事を知らないからです。なにか困ったことがあるのかどうか?何を望んでいるのか?、そのようなことはよほど近い人でなければ直接聞くこともないでしょう。そして、仲間の目を気にしますから、敵に直接手助けすることは難しいのです。できる事は、イエス様を通して神様に祈ることだけでしょうか?。このように、敵のためにできることは極めて限定的です。それが隣人であっても、できることは限られています。それだからでしょうか?私たちはどうしても、自分のためばかりに行動します。それを、イエス様は警告しています。

 『6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。』

自分の事を「良い人だ」と評価してほしい。だから、善いことを人の前でする。確かに、そういうこともあるのでしょう。まあ、「悪いことをするわけではないのだから」と、よっぽど極端でなければ、非難されることではないかもしれません。しかし、イエス様の言われるように注意が必要です。なぜなら、その奥には隠れた本質があるからです。弁証法で、人の前での善行を分析してみるとこうなってっしまいます。

正の命題「人の前ならば善行をする」 つまり、善行をする動機は自分の評価を上げるためです。反の命題は、「人の前でなければ悪を働く」もしくは「人の前でなければ善行をしない」 と言うことになります。ですから、正反の命題の上位にある本質は、「自分のためなら何でもする」とか「自分のためにならなければ善行はしない」と読み取ることが出来ます。つまり、自分のためだけの善行。この善行は、隣人を愛するとか敵を愛するようにとの教えとは、やはり異質のものです。そして、その善行の報いもその場で受け取ってしまいますから、善行と報いの間に貸し借りはできません。一方で、神様の御意思に沿って無償で行った善行では、神様への貸しと言いましょうか、天国に積む宝となるのです。偽善者という強い言い方はどうかと思いますが、良く見られたい人が そのように呼ばれます。その偽善者がほめられたいから施しをするのであれば、それは、ほめられるための正当な対価なわけです。その善行は、相殺されてしまって、天に宝を積む結果とはなりません。

 イエス様は言います『6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。』

おそらくこれは、ことわざです。当時、祭壇で捧げ物をするときに右手を使いました。このことは、正しいことを象徴します。ただし、後付けかもしれません。「右手」とは真の善行をする高い精神を表しており、「左手」とは卑劣で自己中心的な性質を表します。私たちは、可能な限り、右手と左手の間に壁を作る事、つまり、悪い左手に右手のすることを利用されないため、右手のすることを左手に知らせてはならないのです。それがどんなに、善いことであっても、左手に知らせると、悪、つまり自分のために利用してしまうからです。ですから、右手だけで、善行をすれば、必ず天国に宝が積まれて、それを見ておておられる神様は必ず報いてくださるのです。


 同じようにイエス様は、「祈るときにも、偽善者のようであってはならない」と言いました。理由は、施しをする時と一緒です。人に見てもらおうとして、目立つように祈るならば、それは自身のためにやっている事であり、隣人や敵を愛して祈っているわけではないのです。決して、人の前での祈りに意味がないわけではありません。また、公の祈りが必要なことがありますから、結果的に目立ってしまうこと自体に問題はありません。ただ、自分の評判のために祈っていたならば、その口に出した祈りの言葉は聞かれないでしょう。逆に、心の中にある「評判を得たい」という祈りが神様に聞かれて、それでおしまい。すでに「評判」と言う報いを得ていますから、神様は報いる必要がないのです。

『6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。』

 これも、象徴的な言い方ですね。決して、一人でなくてもよいだろうし、自分の部屋に隠れなくてもよいはずです。ですから、人に聞かせるための祈りをするではなく、神様とだけ向かい合って祈ってくださいと言う意味だと受け止めます。ですから、複数の信徒が集まって、とりなしの祈りをすることを否定したものではなく、神様に聞いてもらう祈りを心がけると言うことだと思います。「人の評判を得たい」との祈りは、そのまま成就してそれでおしまいです。一方で、神様に向かい合って、心から捧げた祈りは、かならず神様が聞かれて、報いてくださいます。

 また、イエス様はこのように教えました。

『6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。』

 この異邦人が何処の国の人を想定しているのかわかりません。しかしパレスチナのバアル神の礼拝が、朝から正午までかかるものであったことや、ユダヤのファリサイ派の人々の祈りが長かったことを思い浮かべることが出来ます。祈りが長いと言うことには、おもいもよらない問題があります。「神様に考え直してもらう説得」や「神様が知らないことを報告」等が、祈りを長くする主な原因だからです。神様への説得は、神様の御心を曲げようするものであります。また、神様への報告は「神様はすべてを御存知である」ことを無視しているのです。神様はすべてをご存知ですから、祈るときにくどくど祈るのではなく、短い祈りで通じます。そして、「御心の通りに」なるように神様に任せることが大事です。


 そこで、イエス様は、祈り方を群衆に教えました。これは、主の祈りとして、現在も教会で用いられています。皆さんは、主の祈りに違和感を持ったことがあるでしょうか?私は、つい最近までこの部分で引っかかっていたのです。

『6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。』この部分です。負い目とは「借金」のことです。「私たちの借金を赦してください。私たちが債務者を赦しましたように」と言うのが原文の直訳になります。

私たちの使っている新生讃美歌の主の祈りでは、こう訳されています。

「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」

正確に言えば、「我らがゆるしたように」と過去形を使っています。祈った時点ですでに、「私は罪をおかした人をゆるした」と宣言しているのです。これは、重たい言葉ですね。私は、どれほど罪をおかす者をゆるしただろうか?そして、いまからどれだけゆるせるだろうか? こんな心配をしてしまうわけです。そして、自分はゆるした分しか、つまりほとんどゆるしていないから、ほとんどゆるされないのか? と思ってしまうわけでね。そして、「我らに罪をおかす者をゆるす」こんなこと人間には不可能。約束できないのになー。・・

 でも、よく考えてみると、この主の祈りは、イエス様の祈りなのですね。イエス様は、ご自身の祈りをそのまま私たちが使うようにと教えたのです。

イエス様は、続けます。『もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」』

 イエス様の言われることはよくわかります。しかしですね。私が人の過ちを赦せるのか?と言うところにあいかわらず困ってしまいます。多分無理なのですね。それでは、私は赦されないのだろうか? そして、赦される基準に達する人はどれだけいるのだろうか? と、なってしまうのです。そこで、やはり、これはイエス様の祈りであるということに立ち返らなければなりません。罪のないはずのイエス様が、自身の罪を赦してくださいとまでへりくだって、私たちのために祈りました。そして、イエス様は多くの人々の罪を赦されたのです。そして、私たちはイエス様の祈りで祈ることを許されました。なぜならば、神様の無条件の憐れみによって、私たちは赦されるからです。その赦しは、イエス様の死による贖いですでに保証されているのです。それは、私たちがイエス様の十字架の犠牲と復活を信じ、そして私たちの罪人だと認めているからです。だから、私たちの罪は贖われたのです。

 主の祈りは、イエス様の祈りです。その祈りの一つは、私たちには「できない約束」です。イエス様だからできる罪の赦しの願いであります。だから、私たちは神様に罪の赦しを祈るとき、イエス様の罪の贖いが間になければ、その条件を満たさないのです。私たちは、イエス様を信じることによって、無条件の赦しが約束されています。たとえ私たちが、人の罪を赦さなかったとしてもです。だからと言って、じゃあ大丈夫なんだと思って、何もしなくて良いかと言うと、そうではありません。出来る限りイエス様の教えに従いたいからです。イエス様の愛に答えたい。だから、できはしないことですが、私たちには人の罪を赦そうとする努力をしたいのです。そのためには祈りが必要です。でも残念なことに、私たちには、イエス様のように人を赦すことなど出来ません。出来る事と言ったら、イエス様を通して神様に祈るだけ。それ以外の手段は思いつきません。だから、イエス様が教えられたように、長々と祈るのではなく、イエス様の祈りである主の祈りで祈ってください。また、具体的に祈りたいことがあるときは、こまごまと、説明はいりません。神様は、すでに私たちの願いをご存知です。イエス様に取次ぎをお願いして、神様にすべてをゆだねましょう。そういう、シンプルな祈りが大事です。イエス様が「こう祈りなさい」と教えた通りに、イエス様の聖名を通して祈ってまいりましょう。