ルカ6:1-11

 安息日とは


1.安息日とは

 安息日とは、天地創造の第七の日のことです。神様はこの日を休む日と決めたのです。現在の暦では第一の日は、日曜日ですから、第七の日は土曜日になりますが、ユダヤの暦では日没をもって日が変わりますから、金曜日の夕方から土曜の夕方までが安息日です。そして、この安息日にユダヤ教の人たちは神様を礼拝するわけです。

 この安息日には、不要、不急の事をしないのが決まり事でした。

それは、創世記に『2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。』とあるからです。ユダヤ教では、安息日には「働かない」ように細かく規則が決められていました。日常生活でも食事の準備は前日に終えて、安息日には家事をしません。それは、神様が私たちのために与えてくださった、全ての者への休息の時だからです。

 

2.安息日に麦の穂を摘む

 麦の穂を摘む事は、「ファリサイ派の教え」(タムルード:口伝律法)では、禁止されていません。むしろ、寄留者や、やもめのために全てを収穫しつくさないように指導されていました。ですから、とがめられた理由は、麦を頂いたことではなくて、「安息日に仕事をする」のがいけないと言うことです。

 厳格に教えを守るとは言っても、やむを得ないことならば、安息日でもやってよいのは、明らかです。イエス様の弟子たちも、お腹がすいてたまらなかったから、麦の穂を摘んだのであれば・・・ある意味やむを得ないですね。 ファリサイ派の人々は、やむを得なくて、だれの迷惑になっているわけでもないのに注意をしているわけです。このような お堅いファリサイ派の人々に対してイエス様は、ダビデの話題、先人たちの柔軟な判断を引き合いに出されました。

 ダビデの時代、ユダヤの王サウルがダビデの命を狙っていたので、ダビデはサウル王のところから逃れました。そのとき慌てて逃げたので食べる物が無くて、祭司アヒメレクのところで、パンをもらいます。

サムエル記下『21:7 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。』このように、祭司アヒメレクは「空腹のダビデとその部下の為」にパンを与えましたが、そのパンは聖別されたもので、祭司しか食べてはいけない物でした。

 しかし、「聖別したパンを汚さない」という目的のために作られた定めですから、その目的の達成が保証されたならば、食べ物に困っている人を見捨てる理由にはならないのです。 

 イエス様は、そこで言いました。『「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。』と・・・。 定めを決める、そして定めを守る事は、人のためです。定めは、人のために作られた知恵とも言えます。逆に言うと、人が定めを守るために作られたのではありません。ですから、定めのために 人を指図するのではなく、人が生かされるように定めを運用する必要があります。そして、定めが適切でなければ、定めを直せばよいのです。そもそも、ファリサイ派の人々が作った定めです。ファリサイ派の人々が想定していたことと、現実の生活で起こっていることには、違いができます。ですから、定めを無理に押し付けるのではなく、その定めの精神に従って、考え直せばよいのです。

 実際、ユダヤの民は安息日に仕事をしないために、安息日の前に料理を作り終えます。しかし、安息日にはそれを食するという作業もすれば、鍋を火にかけて温めるという作業もします。簡単な作業や、やむを得ない作業は認められていたのです。そういう事から考えると、このファリサイ派の人々の言動は、いやがらせだと考えるのが自然です。特権階級であったファリサイ派の人々は、自分らを批判する人を追い詰めて、黙らせるために、律法の権威を使っていたのです。現代の言葉では、パワハラがあてはまると思います。立場のある者は、このようなことをしてしまわないように、本当に気を付ける必要があります。

 

3.手の萎えた人を癒す

 ファリサイ派の人々は、イエス様が安息日に癒しをされることを期待して、「律法違反」の現場を押さえようとして待ち構えていました。イエス様が安息日に癒しをするように仕向けるために、ファリサイ派の人々は、会堂の中に片手の萎えた人を連れてきていたようです。つまり、おとりを使ったのです。

 イエス様はそれを知っていながら、片手の萎えた人を癒そうとされました。その人のためです。

聖書は、この様に続けます。

マルコ『3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。』

 

  ファリサイ派の人々の心はかたくなでした。イエス様にこれほどまでも「悪行」と言われても考え直さなかったからです。そして、正しく律法を読み取り、正しく指導するとの本来のファリサイ派の役割さえも、イエス様を貶めようとの悪意のために放り出してしまったのです。

 勝ち目がないと見ると、ファリサイ派の人々は、ここでは「だんまり」を決めて、そして次の作戦を考えます。その姿を見て、「イエス様は怒った」と聖書には書かれています。実際に悲しいですね。批判されると、どんな理由でもつけて人を攻撃しようとして、悪を行う。そして都合が悪くなると黙る。これが、私たちの姿なのでしょう。ファリサイ派の人々は、私たちの代表または、反面教師だと思って聖書を読むならば、そのように思えてきます。

 イエス様は、その場で片手の萎えた人を癒されました。善いことだからです。それから、片手の萎えた人は、真摯にイエス様にすがったのでしょう。このことを忘れてはなりません。イエス様にすがった結果、イエス様に癒されたのです。しかし残念ながら、イエス様はファリサイ派の人々のかたくなな心は癒すことができませんでした。イエス様は、一緒に癒したかったのだと思います。