歴代誌下6:12-21 

信頼して祈る

2023年7日 主日礼拝用に準備したもの

信頼して祈る

 聖書 歴代誌6:12-21

  今日は、井馬佐紀子神学生から宣教を頂くことになりました。ですから、この原稿は宣教に使われることはありません。しかし、宣教の原稿書きは、毎週の仕事の中心ですので、準備は進めて、ホームページに載せたいと思っています。

 さて、今日はソロモン王の祈りからのお話です。ソロモン王は、在位したのが紀元前971年 - 紀元前931年頃であります。イスラエルの最初の王様がサウルそしてその娘婿ダビデが王となりました。そして、ダビデ王の跡を継いだのがソロモンです。イスラエルは、ソロモン王の時にもっとも繁栄したと言われています。なぜかと言うと、ダビデの時代は、戦争で領土を広げることと、肉親の間の諍いに明け暮れていましたが、ソロモンは平和政策へと切り替えたからです。交易に力を入れ、エジプトのファラオの娘婿となることで、安全も保証されます。そういう時に神殿を作って、幕屋に置いていた契約の箱を納めようとしたわけです。契約の箱とは、モーセの十戒が刻まれた石板2枚を納めた日本の神輿のようなものです。最初は、アロンの杖とマナの入っている壺もあったようですが、ダビデの時代には、失われて、石板だけがだったようです。ダビデは、神殿を立てようと準備を始めました。それを神様は建設を止めました。そして代が変わったので、ソロモンのとき神殿を建てることが許されたのです。2代掛かりの事業ですので、さぞかし、壮大な建築物だろうと想像しそうなところですが、意外と小さいものです。

列王上『6:2 ソロモン王が主のために築いた神殿は、奥行きが六十アンマ、間口が二十アンマ、高さが三十アンマであった。』

この記事から大体のサイズがわかります。1アンマは約45㎝ですから、奥行きが27m、間口が9m、高さが13.5mとなります。これが、内陣と外陣をあわせた、全体のサイズです。その内陣と外陣は5アンマの間口を持つ脇楼に左右を挟まれていますから、あわせると間口は30アンマ(13.5m)となります。内陣は神殿の奥から9m、外陣は神殿の手前側にあって奥行き18mあります。(そのほかには、参拝のための廊下が奥行き4.5mで間口が9mあります。)ということで、さほど大規模な建築物ではありません。しかし、神殿ですから、材料や装飾に税を尽くしたものと思われます。イエス様の時代の第二神殿は、ヘロデ大王がほぼ全部を改築したものです。記録によると、1万8千人ほどが、アグリッパ2世のころまで、神殿の改修のために働いていたそうです。人数が多すぎるように感じるかもしれません。当時の貧民対策としての公共工事だと思ってください。また、石垣のために、石を切り出して運ぶ、あるいはレバノン杉を切り倒して、板に加工して運ぶなどの作業も含んでいたと思われます。また、装飾関係や祭具や祭司の服も必要ですから、1万8千人という人数もそうおかしくないのだと思います。

 神殿の奉献の時がやってきました。親の代から望まれてきた神殿を完成させたソロモン王は、イスラエルの民の前で、神様にひざまずいて、祈りを捧げます。神様は、ダビデに対して子孫を存続させることを保証していました。それは、ダビデへの契約の言葉からわかります。

『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』


 結局、ソロモン王の歩みはダビデ王とは異なりました。確かに、外交では近隣の国王と姻戚関係となり平和をもたらし、そして内政もうまく回っていました。ソロモン王は、知恵を持っていたからです。しかし、信仰の面では外国の女性を宮廷内にいれたことが問題でした。周辺諸国の王様との姻戚関係のために、異国の宗教が入り込んだのです。イスラエルが偶像礼拝に染まっていく原因の一つを作りました。その偶像礼拝のために神様は、バビロン捕囚をひきおこし、ダビデの王朝は完全に滅びたのです。ソロモンは、神殿を奉献するにあたって、ダビデとの約束を守るようにと神様に願って祈りました。しかし、どういうわけかソロモンはダビデのように約束をしなかったのです。祈った中身を少し吟味してみましょう。

 まず、登場人物です。僕がソロモン、神様の僕であったダビデ、そして神様の民であるイスラエルの民。神様は、時として主(原語では神様の名前:ヤーゥエ)と呼ばれています。当然ですが、ソロモンは対等ではなく、神様の僕としての態度をとっています。そして、これだけ長い祈りですが、お願いしている部分を取り出すと、これだけになります。

「6:16 イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。6:19 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。6:20 そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。6:21 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

 このように、祈りの部分だけを見てみると、かなり一方的な要求だと感じないでしょうか? なぜかな?と考えてみますと、約束について、神様にだけ守るようにと要求していて、自分やイスラエルの民のことは全く約束していないのですね。そもそも契約とは対等なもので、双務的なものです。つまり、お互いに約束しあうものであって、片方にだけ責任があるのではないからです。もちろん祈りですから、お願いになるのも当然です。しかし、ダビデと神様が契約したことについて、神様に守れと言っておきながら、自分はその契約の恩恵を受け取るだけで良いのか?と、気にかかります。本来ならば、「ダビデと神様の契約の通り、僕はダビデのように神様に従って歩みたいので、導いてください。」等と祈るのだと思います。ただ、「罪を赦してください」だけが例外でした。残りの全部は「聞き届けてください。」です。決して悪い祈りとは言えないのですが、なにか、やはり一方通行に感じてしまいます。このソロモンの祈りは、神様に「聞いてください」とばかりで、逆に「神様のみ旨を教えてください」とは、ならなかったのかな?との感想を持ちます。当然お祈りですから、最初は一方的なお願いばかりであっても、構わないのです。ただ、気になったのは立ち位置です。ソロモンは、自分の事を僕と言ってへりくだっているように見えますが、実はそうではない気がします。ダビデのようには、神様の僕となりきっていないと感じるのです。

ここで、ダビデの祈りを取り上げてみたいと思います。

詩篇『17:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。

17:2 御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。』

 これを読むと、ダビデは、神様にお願いをする中で、神様を欺く事をしないとの誓いをしています。そして、神様を欺く気がなくても、間違うことはありますから、「公平にご覧になったうえで、私を裁いてください。」と祈りました。ダビデは、神様との約束を破るとしたら、ダビデ自身の方であることをよく認識していたようです。しっかり、罪の意識があるのですね。それと比べると、ソロモンは、「罪を赦してください」とは祈っておりますが、「ダビデと神様の契約を破るのは、神様の方だ」とでも言いたいのでしょうか? なにか、ソロモン自身の方には、あまり問題を感じていないようです。でも、最後の最後には、「罪を赦してください。」と祈るわけです。この祈りがあることで、すこしほーっとしました。先ほど言いました、立ち位置ですが、神様の上に立って、そしてあれこれと自分の気に入るように命令を下すような感じでした。それが、「罪を赦してください」と付け加えたことで、あるべき立ち位置に戻ったのだと思います。上下関係は明確です。神様にお願いはしますが、結局は神様の御心のとおりに収まるのです。神様の御心を変えるように説得するのは、立場を超えていると思ってしまいます。一方で、イエス様はこのように教えました。

マタイ『21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」』

すこし、ソロモンの祈りに対して批判が過ぎたようです。イエス様のこの言葉からすると、「神様に絶対的に信頼して」祈るならば、求める者は何でも得られるのです。ならば、神様を説得するような祈りも許されるのですね。だけど、祈りが叶えられないなどと疑ったのでは、いけません。神様の善意に信頼して、また必ず実現すると信じて祈るのが正しいのです。だから、神様を説得するような祈りであっても、「神様に絶対的に信頼して」祈るならば、その祈りは神様が聞き入れるでしょう。


 今日は、神殿を奉献したときのソロモン王の祈りを取り上げました。ソロモンはこの時、イスラエルの民を代表していますから、祈りの中には個人的な言葉は入れていません。そして、祈りたいことは、この2つでした。

『今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。』

『6:21 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。』

ソロモンの王家が続くこと、そしてイスラエルの民の願いを聞き入れる事。この2つをイスラエルの民の総意として、祈ったのです。このとき、王家が続くようにと2回祈りました。また聞き届けてくださいと4回も祈りました。

 この祈りは、くどいのかもしれません。しかし、神様に絶対的に信頼して祈るのであれば、それは良い祈りなのです。さきほどダビデの祈りを紹介しましたが、ダビデの祈りは個人的な祈りでありました。ですから、誓いを立てることもできれば、「自分を裁いてください」と祈ることもできます。ソロモンの祈りは、公の祈りとして、感謝の祈りを捧げることと王家の続くことへの祈りを2回、そして、「イスラエルの民の祈りを聞き届けてください。」の祈りを4回、・・・最後に、罪を赦してくださいと祈りました。祈りは、色々あるのだと思います。それぞれの立場の人が色々な場面で、祈るわけですから、神様への信頼をもって祈るのであれば、こうでなければ・・という祈りはありません。くどくどと祈っても、お願いばかりでも問題ないのです。神様を信じ、神様に委ねるなら、その祈りは神様によって聞かれます。神様は良い結果へと導いてくださるのです。私たちは、神様が最善を備えてくださることを信じてます。この神様の導きに信頼して祈ってまいりましょう。