コリントの信徒への手紙一8:1-13

偶像に備えた肉


1.偶像に備えられた肉

 コリントには、神々を祭る神殿がありました。当然、住んでいる人々の信仰対象ですから、冠婚葬祭などで、そこで備えられたものを食べる機会はあるでしょう。また、それを避けようとしたら、いちいち確認をしたうえで、お断りもしなければなりません。また、その場にいるだけで、よろしくないとの批判も受けるでしょう。厄介な問題だと思われます。しかし、事実から言えば、偶像に備えられたものの性質が変わることはありません。つまり、何か得られるとか、害になると言うことは物理的には何もないのです。

 また、神々が存在するとの前提ですが、私たちは唯一の神様を信じていますから、その前提には立っていません。しかしながら、その事を口外するのは、害であります。なぜなら、「隣人が信じている神々が ただの偶像であって霊的なものではない」との主張は、隣人の存在を否定するに等しいからです。もし、「キリスト教の神様は存在しない」と隣人から言われたらあなたはどう思うでしょうか? やはり、人として「相手の宗教を尊重する」ことは、必要なはずです。互いに、隣人の宗教・信仰は、認め合うべきなのです。

 とは言いながら、同じキリストを信じる私たちの中では、「イエス・キリストが唯一の神様です」との信仰告白によって、信仰生活に入っているわけです。つまり、偶像に備えた肉は、何の変化もしていない肉であり、物質的にも、霊的にも変化していません。だから、もし食べても何も起こりません。だから、知らないで食べてしまっても問題はないのです。もし、食べることを拒否したいならば、「私の神以外に備えたものを食べるわけにはいきません」等と理由を言って断われば良いでしょう。もしくは、黙って食べないとか、食べるふりだけとか、色々やり方はあります。しかし、「こんなもの食えるか!」などと言ってしまったら、その隣人は悲しみますし、「神様を信じる者は、偶像に備えたものを食べてはならない」と教えられている人が見たならば、「なんて不信仰な!」と思うでしょう。「たべてはならない」この知識だけで判断するとそうなってしまいます。加えて、「その席にいること自体が汚らわしい」と考える人もいるでしょう。そういう席に出ることの多い人と、避けられる人では、そのあたりの考えは大きく違ってくると思います。ですから、キリスト教の信徒間の考えの違いや知識の違いによって、教会内に議論や混乱が起こらない事に配慮が必要です。

 「偶像に備えたものを食べてはいけない」との知識ですが、これを知っていることで高ぶってはなりません。つまり、このことで人を裁くことはいけないのです。知っていると思っているだけで、それは表面的な事に限られているからです。実際は、どんなケースに対しても「偶像に備えたものを食べてはいけない」との一つ覚えで良いわけではありません。人によってまたケースバイケースで必要な知識は、どのくらい数があるのかも解らないほど沢山あるのです。一つ覚えで対処する人は、そのことも知らない と言うことです。一方で神様を愛している人は、神様に知られています。それで十分。神様が導いてくださいます。そして、知るべきは、知識ではなく、神様の事なのであります。

 墓参の供え物、知らないうちに出てくる仏壇に供えた菓子や果物、集団参拝での直会(なおらい)は、なかなか避けようにも難しいです。信仰を強く持てば、「何も起こらない」ので問題はありません。また、知らないで食べた場合は、問題が起こらないでしょうが、進んで出席する葬儀、墓参は、「故人の縁者のために参加した。私の宗教はキリスト教だが、それを主張する場ではない」といった旨をていねいに説明する必要があります。直会についても、そのグループのためを思っての参加で、個人的主義主張をする場面ではないことを説明し、誤解を避けたいですね。出来れば、参加しないのが良いのですが・・・


2.配慮

 偶像に備えた肉を食べることによって、何も起こりませんが、このことを全ての信徒が知っているわけではありません。だから、教会の中に混乱をもたらす可能性があります。「私は、偶像に備えられた肉を食べてしまった」と後悔しているならば、その人は信仰心が弱いのでしょう。「唯一の神以外に神はいない。だから、食べても平気だ」ではなく、「私は汚れてしまった」・・・こう考えるのであれば、「唯一の神様を信じていない」事を暴露するようなものです。これは、食べたせいではありません。もともと信仰が弱いのです。

 信仰に食べ物は何のかかわりはありません。食べたからと言って信仰が弱まるわけでも、食べなかったからと言って信仰が強まるわけでもないのです。しかし、困ったことにだからと言って自由にして良いかと言うことではありません。「食べて問題ないんだ」と単純に受け取られたら大変です。

 もし、知識が乏しく、信仰が未熟な人であるならば、その席に加わり食事をする流れから、偶像礼拝に進むことも懸念されます。そういう意味で、自分は強くて大丈夫でも、弱い者たちが罪を犯すようになってしまいます。その弱い人のためにキリストは十字架にかかって犠牲になってくださっているのですから、弱い人たちに罪を犯させて、さらに傷つけるようなことは、避けなければなりません。なぜならそれは、キリストに対する罪だからです。

 だから、パウロは「これから以後、偶像に備えられた肉を食べることをしない」と宣言したわけです。このような配慮は、イエス様がすべての人を救おうとしているのですから、一人でもつまずかせないようにするために、必要な事であります。