イザヤ書61:1-3

希望が語り継がれて

  バビロン捕囚から帰還した人たちが、目の当たりにするのは、破壊されたままになっている神殿、復興の進まない街の悲惨な姿です。捕囚にされずエルサレムに残された貧しい人々は、再建しようという意欲さえ持たずに、街は全く復興していなかったのです。帰ってきた人々も最初は、再建の意欲に燃えていましたが、神殿の建て直しをしようとするものの、周辺の国の妨害で進まず、あまりにも変わらない状況に意気消沈していました。バビロンから帰還して、新たな希望への期待があっただけに失望が大きかったのです。

 55章以下を第三イザヤと呼ぶ人がいます。この預言書には2~3人の著者がいるということですが、いずれにしろ、40章以下は39章までと別な著者だということです。40章以下は、バビロン捕囚後の事であります。特に61章1-3は、エルサレムの復興に対する イザヤの召命を歌った箇所であります。

 都エルサレムの現実を前にして、主にある希望を歌ったところで、誰がそれを聞いてくれるでしょうか?。どんな『約束』を語っても、それを聞くことに希望が無かったでしょう。『良い知らせ』を伝えようにも、人々の希望は打ち砕かれ、そしてどうにもならなかったのです。その人々を元気づけるには、言葉で足りるのでしょうか?

1.厳しい現実

 町の中には、貧しい人、心の打ち砕かれた人、捕らわれた人が多くいました。ここで捕らわれた人というのは、犯罪者でも人質でもありません。「捕らわれ人」とは、貧しくて、多くの借金をして返済不能になった人の事です。エルサレムに帰還したとき、街は壊され尽されたままであり、そして耕作をしなくなった畑は、荒れていました。当然、貧しいわけですが、さらに干ばつなどで追い打ちをかけられます。生活が苦しければ、借金等でしのぎます。しかし、それを返せずにいたら、畑を借金のかたに取られるわけです。そして、ついにはすべての畑を手放して、これ以上の借金ができなくなると、奴隷として働くしかなくなるわけです。

 預言者イザヤは、人々にその現実をどのように変えるべきかを語りませんでした。今以上に頑張れとはっぱをかけても、希望を持ちようが無かったからです。イザヤは、今の現実が変わることを語りました。変えるのは神様であります。

 「貧しい人」にとっての望みは、貧しさがなくなることがまず第一です。「心の打ち砕かれた人」にとって、その追いつめられた現実が変わることです。「捕らわれ人」にとって、奴隷から解放され、もとの地位に戻り、負債がなくなることです。そして、嘆いていたことが現実的に喜びに変わるためには、元に戻るだけでは十分でありません。また、暗い心から、神様を賛美する喜びの心に変わることが必要です。そこには神様の正義が必要です。貧しい者から不正に取りたてる社会構造に支配されるのではなく、神様の正義が行なわれ、街の人々の元気が戻ることです。イザヤは、このように貧しく苦しむ人に、よい知らせを伝えるために自分が預言者として立てられたと自覚しています。「打ち砕かれた心を包み、とらわれ人には自由」をもたらす神様によって、慰めと喜びがやって来る事を告げる預言者としてイザヤは立てられたのです。

2.主が恵みをお与えになる年

「主が恵みをお与えになる年」という言葉で具体的に示されているのは、ヨベルの年のことです。ヨベルの年に、大きな出来事が起こる、と預言者は語っています。

レビ記『25:10 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。』

 ヨベルの年は50年毎にやってきて、その年には全住民に解放の宣言が与えられ、おのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰ることができるといわれています。どんな借金も50年たてば棒引きとなります。そしてユダヤ人同士では利息を取れませんから、お金を貸す人には不利益な事ばかりです。

 「神が報復される日」という言葉は、征服者に対して復讐するとの意味ではありません。終末の日になされる、救いの意味を示しています。終末の日に主の業として起こる、主の恵みとして起こる、全く事態を逆転させる「しるし」として起こるということが語られています。

3.イエス様の教え

 イエス様は、ナザレの会堂で聖書を読もうとした場面でイザヤ書を渡されました。イザヤ書61章1‐2節が目に留まったので、その言葉をご自身の宣教に使いました。

ルカ『4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。』

このように、その約束が たった今 御自身によって成就した事を明らかにしたのです。

 この聖書の言葉が語られ、聞かれる。つまり、イエスの名による宣教の業があるところでは、その言葉が語られます。そして、「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」という神様の声を聞くことができるのです。これを語られたイエス様が、それを成就する神様であります。イエス様が実現したと宣言していますので、私たちは単なる気休めを聞いているのではなく、「聞いている今、この瞬間に」起こっているとの宣言なのであります。このイエス様の言葉が語られるのは、礼拝です。イスラエルの民は、まだ再建されない神殿で、あるいは会堂の中で、3節の希望の約束を聞いたことでしょう。