ルカ9:28-36

イエス様に聞け 

2022年 327日 主日礼拝     

 「イエス様に聞け」

聖書 ルカ9:28-36


今日は、ルカによる福音書から、イエス様の姿が変わった記事についてお話をします。この記事は、マタイ(17:1-9)やマルコ(9:2-10)にもあり、内容も背景もほとんど一緒です。あえてルカによる福音書での違いを挙げると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の順番が、ペトロ、ヨハネ、ヤコブに入れ替えられているところと、「ペトロと仲間はひどく眠たかった」という説明が加えられているところです。ヨハネの兄ヤコブは、イエス様の弟子の中では中心人物でしたが、ルカはペトロやヨハネのようには評価していないようです。ルカは使徒言行録を書いた人ですから、ヘロデ・アグリッパ一世によって殺された(使徒12:1-2)ヤコブよりも、その後のペトロとヨハネの活躍を重要視していたようです。また、「ペトロと仲間はひどく眠かった」との記事を付け加えることで、イエス様のゲッセマネでの祈りと同じように、長い時間イエス様が祈っていたことがわかります。古代のイスラエルでは、神様に会うために、山に登りました。モーセもそうでした。イスラエルの人々にとっての山は、神様に会うための場所なわけです。イエス様は、神様に祈るために、山に登ってきたのです。なにがあったのかは、今日の記事の前に書かれています。イエス様が弟子たち言った言葉です。

ルカ『9:22 ~「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」』

イエス様は、これから起きるであろう、十字架の死と、死からの復活のために、神様に祈るために山に登りました。この直前には、ベトサイダ周辺で五千人の給食をしていますから、イエス様はガリラヤ湖の周辺の山に登ったのだと思われます。伝承によると、ガリラヤ湖の南端から西に20kmのところにある、標高575mのタボル山なのだそうです。ガリラヤ湖が海抜マイナス213mですから、800m位の山だと言えます。

 このガリラヤ湖を見下ろせる山に登って、イエス様が祈っている時のことです。

『9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。』

この様子は、モーセが十戒を再び授かるためにシナイ山に登った時の様子と似ています。

出エジプト『34:29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。』

 

 白く輝くのは、神様がそこにおられることを示しています。まさに、イエス様はこの山に登って、祈り、そして神様とお会いしていたのです。それだけではありません。そこにはモーセとエリヤの二人も一緒にいました。モーセとエリヤは、このとき再臨したのです。ルカは、ここでマタイ、マルコにない記事を加えています。

『9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。』

 モーセとエリヤは、再臨していただけではなく、イエス様にこれから起きることを知っていたのです。イエス様は十字架にかけられる前、過ぎ越しの食事をしたのちにオリーブ山に登り、ゲッセマネの園で神様に祈りました。ペトロとヨハネ、そしてヤコブも一緒でした。このゲッセマネの園でも、ペトロたちが寝てしまわなかったならば、同じような光景を見たことでしょう。ペトロはゲッセマネの園の時は、不覚にも寝てしまいましたが、このガリラヤ湖畔の山では、なんとか眠気眼でその様子を目撃することができました。しかし、ねぼけているのでしょうか?神様がそこにおられることを見逃してしまっています。ですから、モーセとエリヤとイエス様が対等に話し合われているようにしか見えませんでした。もちろん、ペトロが理解した事だけでも、驚きの出来事です。慌てたペトロは、気も動転したままこのように言ってしまいます。

『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』

 仮小屋とペトロが言ったのは、天幕のことです。つまり、モーセが天幕を張って神殿としたのと同じように、モーセのための神殿、エリヤのための神殿、イエス様のための神殿を建てるということです。モーセもエリヤも預言者でありますから、神様ではありません。それなのに、神殿を建てて拝むとでもいうのでしょうか?ペトロは、本当におかしなことを口走ったものです。また、それだけではありません。ペトロはこの出来事の一日くらい前に、イエス様にこのような信仰告白をしていたはずです。

ルカ『9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」』

ペトロは、イエス様を「神様がこの世に下さった救い主」だと信じますと、イエス様に告白したばかりだというのに、もう忘れてしまったのでしょうか?すくなくとも、気が動転しています。モーセとエリヤという大預言者を目の前に見て、そしてイエス様の白く輝く姿を見て、ペトロは舞い上がってしまったと思われます。そうしているうちに、雲が現れます。

 

 雲は、聖書において『神の臨在』を象徴するものです。さきほどもお話ししましたが、イスラエルの人々がなぜ神様に会うために山に登るかというと、山は神様の住む天に近いからです。そして、高い山は雲に覆われることが多いので、神様は雲の中に隠れていると伝承されたのです。モーセが神様から十戒を頂いたシナイ山での記事でも、

出エジプト『19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。』とあります。

 この箇所で雲は、『神の臨在』を示しています。神様がそこにおられ、そして働かれているとき、雲は現れます。その象徴とも言えるのがエジプト脱出の記事です。出エジプト『13:21 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。』・・・

 新約聖書でも、雲は『神の臨在』を示しています。

使徒『1:9イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」

イエス様は、天にあげられたときに、神様が雲に覆われてそこにおられたのです。

  今日の聖書箇所に出てくる「雲」も神の臨在の「しるし」です。

今日の箇所は、所謂「イエスの変容」と呼ばれますが、イエス様が白く輝いていた時、光り輝く雲が彼らを覆いました。

すると、『9:35これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえたのです。ペトロたちは、神様の声を聞いたわけです。そして、言葉を失いました。神様の声に黙るしかなかったのです。今度は、さすがのペトロもこの時は何も言えません。また、時がたっても心の整理がつかなかったのでしょう。この出来事を、誰にも話すことがありませんでした。

 神様の声を聞いたペトロですから、その声が神様であればイエス様は神の子だと言うことになります。そして、ペトロたちは、沈黙しました。いったい、喜んでいたのでしょうか?それとも、緊張して固まってしまったのでしょうか?・・・一般に、特定の出来事のことを話さないということは、自分への不利益を恐れているか、素直に受け入れられない何か引っかかるものがある時だと思われます。ペトロは、このときまだ、神様がこれから行う、「イエス様の十字架の出来事と復活の出来事」をまだ受け入れていなかったのだと考えられます。イエス様は一度そのことを弟子たちに予告しましたが、ペトロは、ぺトロの都合の良い「メシヤ」像を思い浮かべていたのでしょう。その証拠に、この記事のすぐ後に、弟子たちの心の内が書かれています。

『9:44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。』

 イエス様が祭司長たちによって殺されるということは、弟子たちはすでに知らされています。そして、この言葉ですから、いよいよその時が迫っていると感じたと思います。そして、怖いと感じたのは、イエス様が殺されるならば、弟子たちの運命も一緒だと考えたのでしょう。

 しかし、こまったことに弟子たちは、すぐに話題を変えて場違いな議論を始めます。まるで、考えることを忘れようとしているようです。

 

『9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。』

 

 弟子たちはイエス様がユダヤの王であるメシヤならば、「我々はユダヤの大臣だ」とでも考えていたと、この記事から想像できます。そして、自分こそが一番だと論争しあうとは、無邪気なものです。イエス様は、弟子たちの出世のために、この世に降られたわけではありません。それなのに弟子たちは、イエス様の力でもって国の支配者としての地位を願っているように見えてしまいます。

 ペトロは、雲の中の声を聞きました。

『「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」』

この言葉にペトロが従うならば、ペトロは「イエス様の言葉」に聞かなければなりません。その言葉とは、イエス様が「排斥され、殺され、三日目に復活する」ことです。それは、ペトロの描いた、イエス様との将来像から程遠いのでした。また十字架の出来事が、私たちの罪の贖いであり、私たちの罪がそのイエス様の十字架によって赦されることを、ペトロは知りません。イエス様の十字架の意味をまだ知らないペトロにとって、イエス様が殺されることは、受け入れがたいことだったのです。やはり、このときのペトロは本当の意味でイエス様を信じていたのではなく、信じようとしてもがいていたのだと思われます。もし、信じていたならば、「排斥され、殺され、三日目に復活する」とのイエス様の話を聞いたときに、そして、「9:23~自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とイエス様が命令したときに、真剣にどういうことかを聞いたことでしょう。わたしたちも同じです。イエス様の十字架の死を知っていますが、そのような聞いて知っている そのどこかに、疑問を持っているのです。それでも、私たちの方がイエス様の弟子たちより条件が良いと言えます。それは、イエス様の十字架のあとの復活や、その福音によって永遠の命を得ることを私たちはすでに知っているのです。しかし、言葉で知っていることであって、その十字架での苦しみや、ガリラヤ湖周辺の山でイエス様が祈った時の苦しみ、そしてオリーブ山のゲッセマネの園でのイエス様の祈りの苦しみまではわかりません。その意味では、この時の弟子たちも同じです。イエス様の十字架の苦しみを共に体験し、イエス様の復活を体験するまで、わからなかったのです。  

 イエス様と共にいた時のうち、最後の晩餐、十字架の出来事、そして復活までの3日間。この短い間、たとえ逃げてしまったとは言っても、イエス様の弟子たちは、イエス様といっしょに十字架と復活を体験したのです。このイエス様と共にあって、イエス様の痛みを思って祈ったこと、そして、イエス様が復活を知った時の喜び、この体験があってこそ、本当にイエス様を全身全霊で受け入れる、つまり「信じること」ができたです。

 イースターは4月17日です。皆さんも、これからの三週間、イエス様の十字架の出来事をイエス様に聞いて、イエス様と共に過ごしてください。信仰が新たにされることを お祈りします。