イザヤ書49:1-6

国々の光


 ここに歌われている「わたし」とは、神様の奉仕者としてのイエス様のことであるとも言えます。

(イザヤ書ですから、わたしとはイザヤの事ですが、イエス様の預言であるように読めます)


1.主のしもべの姿

 主は母の胎内からわたしを召されました。わたしを知る人々は、彼の母親への恩を感じています。また、少女時代から母親へと育ったその過程で、彼女の人格や人生観に影響を与えた人も少なからずいたはずです。人は母親から命をもらいます。預言を担う人間を作るために、神様はまず母親から始めました。

 鋭い剣とは?。神様はわたしの口を鋭い剣のようにされました。言葉は、最も神的な能力であると言えます。キリストは、神様の言葉を語るのにためらうことはありませんでした。キリストの言葉が持つ能力によって、神様の王国を地上に告げ知らせました。そのために、神様がキリストの口を鋭い剣にされたのです。

黙示録『1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。』

 隠すとは。"日陰"や矢筒に隠すのであれば、わたしたちは皆、そこに行かなければ見ることが出来ません。「御手の陰に置く」という言葉が指し示すのは、僕の働きには主の意思が隠されているということです。つまり、しもべの姿、行為、言葉の中に、主の意思が表されるということです。

2.第二の僕の歌

 49章1-6節は、「第二の僕の歌」と言われています。この歌が歌われた時期について、いろいろな意見があります。少なくとも、前539年のバビロン陥落に続く捕囚民の帰還が始まる頃の事情は、反映されていると考えられます。

 この「僕の歌」で呼び掛けられているのは、異邦の諸国民です。「島々」は、終末的な意味を持つ、イザヤの愛用する言葉で、当時の地理的知識の限界を越える広がりを示しています。これまで、主の救いから遠いところにおかれていた世界の諸国民が、主の僕によって、「わたしに聞け」「耳を傾けよ」と呼び掛けられているのであります。ですから、この主の僕の歌は、「地の果てまで」もたらされる救いの言葉として述べられています。

3.預言者としての役目

『49:3 わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。』

 この僕は、イスラエルでもあることが述べられています。イスラエルを集合人格として、主はこの僕のうちにご自身の栄光を表す器として、この僕を用いるということが述べられています。イスラエルが捕囚という苦難を潜り抜けてその救いに与っていく姿は、まさしく主の栄光を表す事であることが述べられています。イスラエルの将来は、主の僕の姿の中に表されています。

『9:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。』

 しかし、僕がこれまで経験して知ったことは、預言者としての挫折です。この僕は、民に聞かれない挫折を通してひとつの大切なことを学びました。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。」という核心です。

 預言者は、語る言葉が聞かれないことに困っています。しかし大切なのは、その語る言葉が直ぐに聞かれるか否か、その言葉が直ぐに成就するか否か、ではありません。預言者の役割、その委託が神様から来ている命令であることが重要なのです。

4.僕の自覚

『49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。』

 僕に与えられているこの役割についての自覚を表すこの言葉は、すべての説教者を励まし、慰める言葉です。僕の個人的困難、説教者の個人的困惑が問題なのではなく、その役割が主の御目に重んじられているか否か、という問題こそが重要なのです。そして、預言者の言葉が力を得て働くのは、それが主ご自身の啓示に基づくものであり、それを指し示す時、そこに主の力が働くからです。だから、僕に与えられている約束が何であるかがいつも重要な意味を持ちます。僕はそれ故、自分の働きは、「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために」与えられた役割であると、その核心を告白しています。しかも「母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形作られた主は」と繰り返して語り、生れる前からの主の御計画として、自分の預言者としての召しがあることを明らかにしています。

※新約聖書はこの僕の歌が、イエス・キリストにおいて成就したと見ています。イエス様はイスラエルに捨てられ、彼の働きが無駄であったかと思われるような方法、十字架の苦難を通して、イスラエルをその罪から解放します。主の救いは、十字架の苦難と復活の言葉を通して実現しました。そして、その十字架の言葉を世界に宣べ伝えることによって、その救いは全世界に広がります。12人の弟子は、まさにイスラエルの12部族を代表し、そのことばを携え、イスラエルの失われた者を捜し求めて宣教の業に従事し、彼らもまた、主と同じように苦難と挫折を味わいました。そして、世界の救いに貢献したのです。