サムエル記下7:1-17

 ダビデの祈り

2021年 6月 6日 主日礼拝

「ダビデの祈り」

聖書 サムエル記下7:1-17


今日は、旧約聖書から預言者ナタンの見た幻のお話です。

預言者であるナタンは、イスラエルとユダの王だったダビデの時代に活躍し、ダビデ王に神様の言葉を伝えていました。今日の聖書の記事では、神様のために神殿を建てようと思い立ったダビデ王が、預言者ナタンに相談したことから始まります。預言者ナタンは、神様に尋ねることも無く、『心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。』と答えます。つまり、預言者であるナタン自身も反対しませんでしたし、神様に聞くまでもなく、神様は共にいて助けてくれると思ったようです。しかし、神様はそうは思っていませんでした。

ダビデが王になる前は、先代のイスラエルの王だったサウルから追われていました。サウルはペリシテと戦って敗れて死んだのですが、それを知ったユダの国の人々はダビデに油を注いで王にしました。その後、サウルの家とダビデの家が争いますが、ダビデがイスラエルとユダの王になります。そして、エルサレムを奪いユダの首都としました。サムエル記には、その様子が書かれています。

サムエル下『5:6 王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」

5:7 しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。』

ダビデは、このイスラエル近辺では木材があまりとれないなか、貴重なレバノン杉を隣国から送ってもらって、エルサレムに王宮を建設します。レバノン杉は、ガレー船などに使われた丈夫な木材です。またダビデ王は、宿敵のペリシテと戦って、打ち勝ちます。そうした時期に、ダビデは神の箱をエルサレムに迎え入れています。神の箱とは、モーセの契約の箱です。モーセの契約の石板やマナの入った金の壷そして、アロンの杖が入っていた金塗りの箱のことで、1対のケルビムが箱を守っています。ダビデは、エルサレムに神の箱を持って来ましたが、相変わらずモーセの時代と同じように天幕の中、つまり外に神の箱は置かれていました。紀元前1000年ごろになりますが、ダビデ王は神の箱を置くために、神殿を建設することを思い立ったのです。これは、イスラエルとユダの国が安泰であり、そして経済的にも潤っていると判断したことを意味します。しかしながら、ペリシテ等と戦っている状態が続いていますので、武器を作り、そして街を城壁で囲むことも必要です。このような戦争準備も怠らずに、さらに神殿のためにお金と人を掛けることが出来るという判断が、この背景があると思います。また、イスラエルとユダの国の力を誇示する神殿となるはずですから、その材料や腕の良い職人も国を挙げて集めなければなりません。ですから、ダビデはそのことも考えて「行ける」と判断をしたのでしょう。少なくとも、ただの思い付きで、無謀な計画だったとは言えないと思われます。預言者ナタンの目で見ても、『心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。』と答えた様に、問題だとは言っていないのです。しかし、どんなに順調に国が整ってきたと言っても、ペリシテなどの周辺の国との戦争が終わったわけでもないのです。戦争だけでも大変なのに、国力を誇示するような神殿建設には人、技術、お金、時間がおびただしく必要になり、建設は困難であります。なぜなら、国のシンボルとなる神殿ですから、最高のものを作り上げようとするはずです。また、技術、物資、食料など戦争中のことですから、いつ止まるかもわかりません。そういう意味で、ダビデが神殿を建設しようとしたことを、神様が止められたのだと思われます。

しかし、見方を変えると、ダビデは素直で良いプランを考えたとも言えます。ダビデは、預言者ナタンにこう言いました。

『「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」』

ダビデは、ぜいたくなレバノン杉の王宮に住んでいました。もちろん、エルサレムを奪った後にダビデが建設したものです。そういう立派な王宮にダビデ自身が住んでいるのに、共にいて導いて下さる神様が天幕の中にいます。実際、神の箱と呼ばれる契約の箱を天幕で囲っただけなので、みすぼらしく見えたわけです。民を導いて移動していたモーセの時代ならば、それはふさわしい事だったのですが、イスラエルの民は国を建設し、定住し始めたのですから、神様にも定住してもらう方が良いはずです。また、神様が野宿をしている状態なのに、自分は立派な王宮で寝起きしていて良いのか?それでは申し訳ないから、神殿を作ってその中に神の箱を置きたい。ダビデの思いは、自然なことだと思います。ダビデは、神様に対していつも純粋に向き合い、そして神様の言葉に聞いていました。ですから、ダビデは大きな失敗を何度もしていますが、神様の言葉によって導かれ続けました。そして、イスラエルとユダの国は固く建てられたのです。しかしながら、ダビデはどんな時でも立派だったわけではありません。私たちと同じように人間臭い人で、失敗をしては神様から叱られていたのです。今日の聖書出来事も、その失敗の一つです。他にも、人口調査を始めたり、ウリアの妻バト・シェバを奪ったり等、ダビデは何度も失敗をしています。ダビデは、有り余る神様の恵みを頂いていながら、その恵みを数えてみようとした事件もありました。ダビデは、神様による国の支配を目指しましたが、やはり人間だったのです。そういう時、神様はナタンを用いてダビデに警告しました。そしてダビデは、その神様の言葉の前に何度もくずおれたのです。そして、ダビデはそれらのことを詩(うた)にして、礼拝で賛美しました。例えば、この詩です。人間的な間違いをしたダビデは、このようにして、いつも神様に祈っていたのです。

詩編『51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。

51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。』

さて、神殿の建設について、神様は預言者ナタンを通してダビデに語ります。

要約すると、こういうことを伝えたわけです。

「私は、イスラエルをエジプトから導きだした時から今まで幕屋を住みかとしてイスラエルの民と共に歩んできた。しかし、レバノン杉の家を建てよとは言ったことがない」

「私はダビデを指導者とした。私はダビデと共にいてイスラエルの民を定住させ、敵を私が退ける。こうして、ダビデの子孫に王国を継がせ、その王国をゆるぎないものにする」

預言者ナタンは、そのままをダビデに伝えます。

ダビデは、どう反応したかと言いますと、神様に感謝して祈ったのですね。今日の聖書の続きを読むと、その祈りが出てきます。ダビデは、神様に祈って、そして賛美をします。そして、ダビデは、素直に神様の言葉に従っています。しかし、ダビデは神殿を建設することをあきらめたわけではありません。ペリシテ等の敵を打ち、国が安定すると、切石、鉄、青銅やレバノン杉などを大量に集めます。そして、このように息子ソロモンに命令します。

歴代誌上『22:6 ダビデはその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、主のために神殿を築くことを命じて、22:7 ソロモンに言った。「わたしの子よ、わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた。』

ダビデは、神様のされることに信頼していました。羊を飼う者だったダビデは、神様に見出され、油を注がれ王とされました。ダビデは、それが自分の力ではなく、神様に従ったために、神様の恵みがあっていることを知っていました。そして、神様に背くことを恐れていたのです。そして、神様と共にあることでダビデは祝福を受け、ダビデの国は確かなものになってきていました。しかし神様は、そのタイミングでダビデが神殿を建てることには、反対しました。まだ、充分に国が出来上がっていないからでしょう。その代わりに、神様はダビデの子孫が代々王となる事を約束されました。ダビデが頼んだわけではありません。神様は、イスラエルの民がこの国に定住する事、そしてそれを治めるのはダビデの子孫、そして救い主がダビデの子孫から出るという事を、一方的に約束されたのです。この約束は、ダビデの契約とも呼ばれます。

ところで、ダビデの子孫から救い主が生まれることが、この聖書の箇所からどうしてわかるのか?と疑問に思われる方がいると思いますので、簡単に説明します。旧約聖書が編集されたのは、バビロン捕囚から帰還してからになりますから、ダビデの王朝は滅ぼされて、無くなっています。王朝は無くなったけれども、生き延びているダビデの子孫が、再びイスラエルの王になるという預言だと考えてください。つまり、今は無くなってしまった国を再び建設するために王様がやって来る。その方が、救い主であるイエス様という事であります。国を滅ぼされ、そしてバビロンに捕囚されて帰ってきたイスラエルの民は、再び国が出来ることを待ち望んでいたのです。そのために、救い主が現れることを待ち望んでいました。ですから、神様に祈って救い主を求めていたのです。

話を神殿の建設に戻します。神様は幕屋でイスラエルの民と一緒に行動していました。それが、ソロモン王の代に一つの神殿に住んでもらう事になるわけですが、神様はそれをお望みだったのでしょうか?神殿を建設したソロモン自身がこのように言っています。

列王記上『8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。』

実際に、この神殿はバビロンによって壊されましたし、ヘロデ大王が建てた第二神殿もローマ帝国によって壊されてしまいました。神様は、もともと神殿に収まっているようなお方ではないのでしょう。どこにでもお住まいになって、私たちの祈りを聞かれているのですから。そして、現代では神殿ではなくなって、教会と呼ばれますが、これは建物の事ではなくて、二人以上のイエス様を信じる者が集まるところが全てキリストの体なる教会であります。そして、ダビデが考えたように、神の家を私たちが建てるのではありません。神様は、ダビデが神殿を立てることを拒否されました。逆に、神様は、ダビデの家を揺るぎなくすることを約束されたのです。私たちの家が、神様によって固く建てられるのであって、私たちが神様の家を建てるのではないのです。そして、神様に相応しい神殿を私たちが建てることはできないのです。それを決めるのは神様ご自身だからです。神様は、私たちを愛して、私たちに慈しみを与えようとされます。ですから、私たちの祈りを聞かれているのです。だから、神様は神殿にいる暇がないかもしれません。

そして私たちはと言うと、ダビデの様に神様の慈しみを一方的に受け取る事しかできないのです。神様の一方的な慈しみによって、私たちは神様によって生かされている事に感謝したいと思います。そして、ダビデの様に神様に祈って、神様のみ旨に従ってまいりましょう。