この二つの記事の間には、カファルナウムの町があります。ガリラヤ湖の北岸にあるカファルナウムを拠点として伝道していたイエス様は、東側のヨルダン川上流のベトサイダや西側のゲネサレトへは、日常的に舟で移動したようです。
1.水上を歩く
『6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。』
ここの並行記事(ヨハネ)をみますと、群衆は、イエス様をメシヤに担ぎあげようとしたことが書かれています。そのためでしょうか?イエス様は群衆を解散させました。
『6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。』
イエス様は、一人だけ山に残って祈りました。これも並行記事からですが、イエス様は弟子たちを先に出発させています。つまり、自分だけ山に残って、弟子たちを先にカファルナウムに返したのです。これは、ベトサイダにいくと今いる群衆がまたイエス様を取り囲むだろうから、それを防止しようとの意図があったのだと思われます。ですから、弟子たちはイエス様を待つことなく、カファルナウムに向けて舟をこぎだします。
『6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。』
この記事から、イエス様は山の上から湖を見て、弟子たちが逆風に悩まされていることを見て取ったことがわかります。と言うことは、並行記事と異なって、月明かりで湖面が見えたこと、そして嵐ではないことがわかります。そして、よくわからないのは「そばを通り過ぎようとされた」ことです。どうも、マルコの記事によると、舟は逆風で難儀はしていたものの、特に命の危険はなかったようです。
しかし、弟子たちは、湖上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思いました。6章では、ナザレの人々は、イエス様のことを「大工の息子」と見ました。そして、ヘロデ・アンティパスはイエス様のことをバプテスマのヨハネの生まれ変わりと見ています。そして、月明かりの下とは言え、弟子たちはイエス様のことを幽霊だと見ます。これは、イエス様への評価が分かれていることを象徴します。
『6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。』
弟子たちは、イエス様のみわざを間近で見ていました。それなのに、それらを「しるし」として認めるのではなく、ただイエス様が幽霊であるかのように誤解したのです。夕べ見たばかりだった「パンのしるし」の意味を理解していなかったのです。彼らはそこに、キリストの栄光と力とを学ばなかったのです。イエス様は、水の上を歩いたり、風を止めたりする。そして、それ以上の力をもっています。そして、昨晩も、群衆にパンを与えて、満足させたのです。
2.群衆が集まる
『6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。』
多くの人が、いやしを求めてイエス様のところに来ています。
『6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。』
彼らは何とかしてイエス様にさわろうとしています。さわると、いやされました。同じように、私たちもイエス様の力を受け取るためには、さわることが必要です、自分の必要をイエス様にとりなしていただくことです。何もしないのでは、決してこのイエス様の力を得られないのです。イエス様に近づいてください。そうすれは、与えてくださいます。
イエス様の力あるみ業について見てきました。ナザレでは不信仰、12使徒には権威、ヘロデにはよみがえり、弟子たちには無理解、そして群衆たちにおいては触るという題材で語られました。これらイエス様のみ業は、信仰によってキリストの権威を認めたときに、初めて理解でき、そこに現れるのです。