1.接吻
接吻するという動詞はフィレオー(φιλέω)です。友人同志の愛や接吻を意味します。それはフィロス(φίλος)が「友」を指すことに由来します。もうお分かりだと思いますが、友達の愛フィリア(φιλíα )と同じ語幹となっているわけです。
ユダについては、よくもそんなことができるものです。だれがイエス様かを知らせるだけですから、話しかけるとか、真っ先に挨拶するだけでよいはずだからです。確かに、暗い夜のことですから、イエス様を捕まえに来た人々が、面識のないイエス様を捕まえるのは難しいでしょう。そこで、ユダは「接吻」をしるしにして、イエス様を仲間に知らせたわけです。とは言いながら、今裏切ろうとしているその瞬間に「接吻」をする神経はわかりません。良心の呵責はなかったのでしょうか? さらに、ユダが今裏切ろうとしていることを知っているイエス様は、それを許しています。こちらのほうも、信じられない出来事です。
『26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。』
ここの「友」のギリシャ語は、ヘタイロス( ἑταῖρος)を使っています。「仲間、友人、同志」を指す言葉です。先ほどのフィロスは、ここでは使われていません。なにか、意図がありそうです。弟子たちにフィロスを使った箇所を見ると、こんな記事があります。
ヨハネ『15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』
この言葉は、ユダにも適用されます。「み言葉を知らせているので、友だ」というわけです。それなのに、裏切られるその瞬間には、イエス様は「仲間」としか言ってくれなかったのです。接吻は、み言葉を受け取ることも象徴していますから、ユダは「み言葉を受けていて友だったはずなのに、裏切った」そういった、昔の仲間だったと強調しているのかもしれません。それにしても、イエス様の冷静さには驚きです。
預言は成就します。イエス様は、預言の通りに進めたのです。そこには、サタンとの戦いもあります。
2.イエス様を見捨てた弟子たち
イエス様を見捨てて逃げてしまいました。弟子たちのこの失態の原因は何だったのでしょうか?。
(1)聞く耳を持たなかった
イエス様は、人々に裏切られ十字架刑の苦難を受けることを3度も弟子たちに話していました。
しかし、彼らはその意味を理解しようとしなかったのです。彼らにとって、弟子であることは誇りで
ありました。そして、イエス様がユダヤの王となるときは、そのイエス様のできるだけ近くに席をも
らって、中心的な働きをすることを夢見ていたのでしょう。それだから、彼らは自分たちにとって都
合の悪い話は、聞こうとしなかったのです。
(2)自分は大丈夫(逃げだすことなどない)という過信
人を裏切るという可能性は誰にでもあります。 しかし、だれしも自分は大丈夫と思いたいのです。
弟子たちも、イエス様が捕らえられる直前までは、私たちは大丈夫ですと自信満々でした。 しかし、
それは彼らの過信でありました。結果、弟子たちは「逃げてしまった」と言う辛い経験を通して自分
を知ったのです。将来のために、良い機会となったと言えるでしょう。
3.イエス様の意思で
以上のイエス様の言動から私たちがわかるのは、イエス様は、「突然逮捕され、弟子にも裏切られた」ことに、ショックを受けていなかったことです。ふつうなら、慌て、叫びそうです。ところがイエス様は、悲しんだわけでも、弟子たちを呪ったわけでも、力ずくで連れて行かれたわけではありませんでした。イエス様は逃げようと思えば逃げることができたのに、むしろ進んで敵の手にご自分を渡しました。そこが何ともものすごい判断なのです。イエス様は弟子の一人に裏切られ、しかも偽りの口づけをもって裏切られるという屈辱、辱めを受けました。また一番弟子のペテロはイエス様の御心をわきまえず、剣を振り回しました。イエス様は、その後始末もしなければなりませんでした。
そもそも、イエス様ご自身は捕まるような悪を一切していないのに、強盗でも捕えるような体制を取られています。しかも、何の宣告もなく不正に逮捕されました。イエス様は、このような辱めを甘んじて受けたのです。それをイエス様は自ら選んだのです。神の子であるのに、イエス様は私たちの救いのために、このような仕打ちを受けることを良しとされたと言うことです。そして聖書に預言されている通りに、十字架上で私たちの身代わりの死を遂げるために、ご自身のすべてを捧げて下さったのです。私たちの救いはこのような、イエス様の犠牲と献身とによって成り立っているのです。