2025年 5月 1日 主日礼拝
『神はよしとされた』
聖書 ルカによる福音書 10:17-24
今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書からイエス様が弟子たちを伝道のために派遣した記事です。
ルカ『10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。』
イエス様の弟子といえば、使徒となった12弟子ですが、ここでは72人もいますから、36組の伝道隊が出来たことになります。36か所で同時に伝道ができるので、一度に広い範囲を回れます。以前にも、12弟子を派遣したことがありました。その記事を見ると、
ルカ『9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。』とあります。
ですから、イエス様の代理としての働きができる状態で、弟子たちを派遣したのだと言えます。また、今日の箇所にも『10:19~敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。~』とありますので、イエス様は、どの悪霊にも勝てるだけの権威を弟子たちに与えていたわけです。そして、弟子たちはイエス様のこの命令を携えて周辺の町を回りました。
『10:9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。』
「神の国(βασιλεία θεοῦ:バシレイア セオウ)」とは「神の支配」とも訳することができる言葉です。神の国はキリストを信じる者の心がキリストによる支配を受け入れることで、成り立つからです。一般的に、私たちを支配しているものとは、物理的法則であったり、経済的原理であったり、法律や様々なルール等があります。それらの法則が、私たちを支配しています。また、私たちの生涯を支配するものには、「運」もあるでしょう。それは、言い方を変えると、偶然にも支配されていると言う事です。また、感情的な面で言えば、笑いや喜びは、私たちを支配しています。また、怒りや恨み、妬み、また恐れや不安が私たちを支配することもあります。これらの感情は、時として強く私たちを支配するのです。私たちは、理性的には、やるべきこと、やるべきでないことは、良くわかっています。そして、やるべきことでもどうしても気が向かないこともあります。また、善意をもってあたろうとは思うものの、自分の中にある悪意が支配してしまう。そんなことが起るわけです。パウロは、このように言いました。
ローマ『7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。』
だれでも、心を正しい方向に向けよう、善いことをしよう とはします。しかし、望まない悪を行ってしまうときもあるのです。その私たちの現実を、パウロは嘆きます。このような有様を、聖書は「罪」だと言ってしまうのです。・・・ここで言う罪とは、「的外れ」のことです。それは、神様に向き合わずに、避けていることを示します。
このような現実を歩む私たちに、イエス・キリストは「神の国は近づいた」と告げ知らせなさい と弟子たちを派遣します。私たちの人生の行き先を導くのは、自然界の法則でもなければ、運や偶然でもない。ましてや私たち自身の感情、すなわち怒りや恨み、そして妬みや恐れや不安 でもないのです。それらを超えて働く神様こそが、その神様の一方的な愛こそが、私たちを導くのです。私たちの中には、罪が存在しています。その罪の支配に負けないで、神様の支配を選んでいきなさい。・・・それが、イエス様の命令なのです。
このようなメッセージを携えて、弟子たちは悪霊を追い出したと、聖書は語っています。当時のことですから、病は悪霊の仕業という考えがありました。病人にとりついている悪霊が、病の原因だから、悪霊を追い出せば病気が治るということです。だから、弟子たちには悪霊を追い出す権能が与えられました。現代に生きる私たちから見ると、悪霊が原因で病気になると言われたら、「ほかに原因があるだろう」と言うでしょうが、当時は悪霊が原因と言うのが一般的でありました。
『10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」』
このように、弟子たちも、悪霊を追い出す権能を喜んでいますから、何らかの手ごたえを感じていたのだと思われます。たとえば、悪霊が出ていくところを見ることができたのでしょうか?もしくは、目の前の病人がみるみる症状が消えていったのでしょうか? すくなくとも、弟子たちは何かそのしるしを見たに違いありません。
ところで、「奇跡の物語り」を読むときはいつもそうなのですが、困ったことには、信じられないと言う事です。そして、私たちは本当に起こったかどうかを、証明することはできません。一方で、弟子たち72人が証人でありますから、そこに何らかの「しるし」があったのは間違いないでしょう。ですから、「この記事は勘違いや幻覚だ」などとして否定するわけにはいかないと、思うのです。また、科学的ではないという理由で、これらの物語を受け入れない態度を取るのも、少しばかり疑問であります。たしかに、今時、病気が悪霊によるものだと言っても、信じる人はほとんどいないと言えます。近代医学や科学の力によって、いろいろな病気について、原因が解明されてきているからです。そういう意味で、超自然的な領域に原因を求めることは あまりなくなってきています。しかし、・・・私たちは神様のようにすべてを知っているわけはないことを、戒めとしなければなりません。知っているのは、ほんの断片的なことだけだからです。この世の節理までは、私たちは知り得ていないのです。だから、迷信と言われながらも、霊や「しるし」を求めるのです。
「霊」とは何でしょうか? 実は、悪霊と病気の関係を完全に否定するほど、私たちは悪霊のことも病気のことも知ってはいません。そういう意味で、科学をその成果以上に評価してしまっているのが現実です。たとえば、「科学的に説明できないものは、迷信だ。」と、もし主張するならば、どれだけのことを私たちは科学的に説明できるのでしょうか?。実は、さほど説明できません。世の中の出来事、現象は、科学的に説明できないことばかりです。そして、わかっている部分を説明するときに、わからない部分は無視する。・・・すると、多くの人はすべてが科学的に解明できていると、誤解してしまうのです。だから、病についても同じです。超自然的な癒しや 精神の解放に原因を求める。それは、素直に奇跡物語を容認しているのだと言えます。だから、不思議なこと、つまり近代科学で説明できない現象でも、受け止められるわけです。そしてその受け止めは、決して迷信とは言えません。なぜならば、真実でないとは、言い切れないからです。真実かどうかわからない。しかし、私は真実だと信じている。または、真実ではないと信じている。どちらを選んだとしても、根拠はありません。・・・そして現代を見てみましょう。物理現象の科学的分析は進んでいます。それにも関わらず、人生の本質、苦難の根源を問う人間の営み、いわゆる「霊」の部分への科学的分析は、いまだ進んでいません。しかし、今やそれが求められる時が、やってきたとも言いたいです。イエス様や弟子たちによる悪霊払いと癒しは、人々の「生きる」ことへの欲求に根源があり、癒しは自分を超えた存在である神様との和解によってもたらされるからです。
悪霊を追い出し、喜び勇んで帰ってきた弟子たちに、イエス様はこのように言いました。
『10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」』
イエス様の名で悪霊を追い出せた そのことを弟子たちは喜びました。しかし、イエス様は、喜んではならないと言います。たぶん、弟子たちはイエス様から授かった権威がうれしかったのでしょう。弟子たちが悪霊を追い出すことができる権威は、弟子たちに与えられた手段でありました。その権威を持つことは、あくまでも手段。目的ではないので、その権威を喜ぶ意味はありません。・・・そもそもイエス様は、何のために弟子たちを派遣したのでしょうか? それは、多くの人々に、「神の国が近づいた」ことを伝え、そして「罪」を悔い改め、イエス様を信じるようになるためでした。その働きのために、弟子たちは身を挺して、イエス様と共に働くことを決心しました。そのことが天に刻まれたのです。決して、弟子たちが頂いた権威を、喜ぶ必要はないのです。弟子たちは、イエス様と共に歩む生き方を選びました。そして、弟子たちは、自分の力で何かをしたわけではありません。イエス様の導きによってイエス様と共にあっただけです。そしてその彼らを 神様が受け入れて、神様の御用に用いています。喜ぶのは、この事実なのです。神様は、彼らの歩み、イエス様に導かれての歩みを「よし」とされました。・・・今日の記事に至るまで、聖書には。このような「しるし」は示されませんでした。イエス様がこの地上に来て初めて、預言者たちが望んだ癒しが起こされたのです。これまで、多くの預言者が見たかった景色ですが、この72人の弟子たちは見ることができました。こうしてイエス様によって、弟子たちがあるがままの姿で受け入れられ、その働きを「良しとされた」のです。
さて、創世記の記事を見ると、神様は天地創造を終え、すべてをご覧になって、それをよしとした記事があります。この宣言は、今日、私たちにも向けられています。人は完全ではありません。欠点も弱さもあり、いろんなものに支配されやすく、心が揺れ動きやすい私たち。ちょっとうまくいかなければ落ち込み、ちょっとうまくいけば高ぶり、人と比べては落ち込んだり誇ったり、そんな私たちを、あるがままで、神様は「よしとされた」のです。イエス様を信じ、そしてイエス様の内にとどまっていれば、神様は受け入れて下さるばかりか、この不完全な私たちを「よしとしてくださる」のです。その、イエス様の恵みの業に感謝してまいりましょう。