列王記上17:12-24 

新しい人になる

20234月23日主日礼

新しい人になる

 聖書 列王記17:12-24

    今日は、列王記から、イエス様の復活によってもたらされた「人の復活、新しい人になること」について、み言葉を取り次ぎます。

 エリヤは、北イスラエル王国がまだあったころの預言者で、最強の預言者ともいわれる人です。神様は、預言者エリヤに数年間続く干ばつを知らせました。そして、エリヤを川のほとりに住ませ、烏(からす)数羽を使って朝夕のパンと肉を運ばせました。やがて、その川も干ばつのために水が枯れると、シドン地方のサレプトと言うところに住むように神様に命じられます。エリヤは、この家の女主人に養われます。シドンは、港町でサマリアより北側にあります。ここは、異教の地ですので、人々は、神様の事を知っていても、信じている人はあまりいません。ここでも、神様は不思議な方法を使って、エリヤを食べさせます。

『17:16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。』

とありますように、わずかに残った粉と油で最後のパンを焼いて、後は死ぬのみでありました。この女主人と息子は、神様によって養われたのです。そして、エリヤもそのために生きながらえることが出来ました。神様は、こうしてどんな時でも養ってくださるのです。

 この女主人は、エリヤが神の人であることを知っていましたので、エリヤの言う通りに、エリヤの食事を先に用意して、その残りのパンに与ります。そうすると、無くなるはずの粉も油も不思議と無くならなかったのです。神の人とは、旧約聖書では、ほぼはぼ預言者のことです。この女主人は、食べ物が尽きようとしている時に、そのわずかな食事を預言者に差し出しました。奇特な方と言うよりは、この女主人は神の人であるエリヤを畏れたことがうかがえます。また、もう死ぬだけだから、どうでもよかったのでしょう。結果として、神様は、そんな彼女と息子の命を不思議な方法で助けたわけです。

 ところが、突然彼女の息子が病気にかかりました。「病状は非常に重く、ついに息を引き取った」とあります。

 すると彼女は、エリヤに言います。

『「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」』

 これは、エリヤを非難する言葉です。何のためにエリヤはここにやってきたのか? 彼女と息子を助けるためではなくて、彼女の罪を裁くため、そして息子の命を奪うために、わざわざこの家にやってきたのか? この言葉を聞くと、エリヤを畏れ、いつ自分の罪が裁かれるかと びくびくしていたことがわかります。そして、エリヤが来なかったならそのまま飢えて死んでいた。そのほうが、よっぽど良かったと思ったのです。息子は死んで、彼女自身の罪を思い出し、そして悔いるだけの生活。死んでいた方がまし・・・ 「なんてことをするのですか? 神の人エリヤは、何をしにこの家にきたのですか?」 そういいたい気持ちもわかると思います。

 そこで、エリヤは、その女主人の問いには直接答えず「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから死んだ息子を受け取り、自分の滞在している上の部屋の寝台に寝かせました。そして祈ります。

『17:20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」』

『「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」』

この2つの祈りに共通するのが「主よ、わが神よ」という呼びかけです。実際に元の言葉の意味から言うと、「ヤーウェ、わが神ヤーウェよ」と神様の名前で呼びかけているわけです。そして、エリヤ自身もこの女主人がエリヤを非難したように、「なぜ神様は、このようなことをされるのですか?」と神様に訴えました。そして、エリヤは神様に祈りました。このとき神様ヤーウェは、エリヤの声に耳を傾け、その祈りを聞いてくださったのです。こうして神様は女主人の息子の命をお返しになりました。エリヤは、その子を連れて家の上の部屋から降りて来て、母親に渡し、

「見なさい。あなたの息子は生きている」と言います。


 旧約聖書では、生き返りの物語は、珍しいと思います。そもそも、創世記では、アダムとエバの犯した罪、神様に従わなかった罪のために、人は永遠に生きることが出来なくなり、そして「生みの苦しみ」を負うことになったことを伝えているわけです。このように、人間は死を乗り越えられないと教えられていますし、ましてや人が生き返るということは、奇跡です。しかし、天地を創造した神様にだけは、その生き返りの奇跡を起こされるのです。そして神様は、人間の生と死を支配し、死を乗り越えて人間を救うことが出来る方であります。ですから、この息子が死から復活させたのは、エリヤでも、女主人の功績ではありません。他ならぬ神様の業なのです。

 今、一度振り返ってみましょう。神様は、エリヤとこの女主人親子を生かし続けました。しかし、突然女主人の息子は病気で死んでしまいます。神様が粉と油をとぎれさせないことで、生き永らえさせたのにです。こうして、親子で生きる保証は突然無くなります。女主人はエリヤを非難するだけでした。しかし、エリヤは神様に向き合って祈り続けます。この違いは大きかったです。神様が何とかしてくれる。神様に祈れば死んだ息子が生き返るかもしれない。そこまでは女主人は考えなかったのです。しかし、エリヤは、その息子が生き返るまで祈りをやめませんでした。そして、女主人の息子が生き返ると、女主人は気がつきます。エリヤは、神様の事を信じ切って、そして神様の命令に従っているのですね。そのとき、女主人自身は、本当に神様の存在に気づいたのです。この物語は、信仰に目覚めた女主人の新しい生活の出発となったわけです。この息子の病気と、死の出来事、復活が無ければ、生きていくことは保証されているものの、信仰のない罪の中にある生活でありました。それが、息子が一度死んで甦ることによって、神様への信仰が生まれたのです。それは、息子の死と言う絶望のなか、エリヤの信仰を目の前で見て、そして生き返った息子を見て神様を信じたからです。神様を信じて、罪から解放された新しい人となったのです。


 この、エリヤの物語は、新約聖書のイエス様の奇跡と重なります。もともと、死んで生き返ると言う事は、私たちの知っている普通の知識では説明できません。人の理解を超えてしまっています。しかし、イエス様はその業を何度もしました。例えば、会堂長ヤイロの娘の物語りですね。

マルコ『5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。』


 イエス様の業を通して、この子は死を乗り越え、新しい命が与えられたのです。イエス様の与えて下さる永遠の生命によって、私たちは死にも打ち勝つことが出来るのです。ここで、私たちが注目したいのは、イエス様はこの生き残るための保証について、次のように語っていることです。

マタイ『6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』

 これは「何を食べようか」「何を飲もうか」との有名な聖句の後にあるものです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」そうすれば、必要なものは何でも与えられるのです。イエス様は、そのことを保証しているわけです。

そして、それは生きることを保証しているだけではなく、信仰に基づいた豊かな生活をも保証しています。それこそが新しい生活となります。私たちは、新しい生活の中で、新しい人となるのです。


 女主人はエリヤに告白しました。

『「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」』

 神の人とは、神様の遣わした預言者のことです。ですから、神の人が語る言葉は真実の言葉でありますし、もともとが神様の言葉なのです。彼女は、これまでもエリヤの命令を神の人からの命令として従っていました。しかし、このとき始めて彼女は、そこに神様がいて下さっていることを知ったのです。ですから、エリヤが真実の預言者であること、そして、エリヤの言葉は、神様の言葉だと信じて告白したのです。女主人は神様を信じました。こうして、神様はこの女主人と息子を新しい人として生まれ変わらせたのです。


 私たちもまた同じように信仰を告白します。イエス様こそ、神の国をもたらす救い主であること。そして、福音の宣教を通して、わたしたちもイエス様の御言葉によって、生まれ変わり、新しい人となろうとしています。

 復活のような奇跡の物語を読む私たちも、その物語の中でイエス様との出会いがあります。私たちは、イエス様に出会い続けることによって、新しい人に変えられるのです。イエス様に祈って、み言葉を読むときに、側にイエス様がおられるからす。そこには、導きがあります。そして、その導かれた体験を証して、分かち合う。このようにして、日々信仰生活を送る新しい人に育っていきたいですね。

 イエス様はわたしたちの罪を思い起こさせるためではなく、また裁くためではなく、この世に降りました。ご自身の十字架の犠牲によって、私たちの罪をイエス様が負ってくださいました。そして、赦されたのです。そして、罪と死の滅びから私たちを救い出すために、イエス様は復活しました。この活ける神であるイエス様の御言葉によって生きることこそ、わたしたちの新しい命であり、喜びなのです。こうしてわたしたちは誰でも、イエス様への信仰を通して死の不安や恐れから解放され、新しい人になるのです。