ルカ5:17-26

 中風の人をいやす2

 聖書の世界では、中風(脳血管障害)も、他の麻痺も含めて一つの言葉で表しています。ですから、「中風」は少し狭い翻訳ですが、とにかく体が不自由な人(単数・男性)が居たわけです。この人には、良い男たち(原語では、友人たち)がいました。イエス様ならば麻痺を治してくれると考え、友人たちは患者を運び込もうとしたのです。

1.男を運び入れる

 イエス様が教えていた家は、人々がたくさんいて、人をかき分けても前に進むことが出来ませんでした。そこで友人たちは思い切ったことを考えます。屋根に上り、屋根瓦を剥がして、そこから寝床ごと吊り下ろしました。マルコの並行記事から見て(マルコ2:1)、この家はカファルナウムの伝道拠点のようです。伝道のために、この男たちの身内から提供された建物だったと仮定しても、これほどの事をするのか?と思うほど大胆さがあります。家を壊すだけでは、ありません。家を壊した結果として、イエス様の前に吊り下すことが出来るのでしょうか?そして、イエス様は、その中風の男を優先して見てくれるでしょうか?そして、症状が和らぐ結果となるのでしょうか?中風の男の友人たちは、そのような心配を一切することなく、イエス様の目の前に、彼を吊り降ろしたのです。

2.「人よ、あなたの罪は赦された」

 『5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。』

 これを読むと、イエス様も迷惑がることはなく、友人たちの信仰を喜びました。つまり、そこまでして治してあげたいという信仰や信念を評価したのです。そして、「あなたの罪は、赦されてしまっている」と言います。(友人たちの信仰を見て、その中風の男の罪が赦されていることをイエス様は宣言しました)それを聞いていた律法学者たちやファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉に相いれない思いがありました。「イエスは、病を癒すことは出来ても、罪を赦すとこなどできない」と言いたげです。福音書では、「誰がそんな力を持っているのか?」とささやき合っていたようすが書かれています。


 イエス様はその困惑を読み取って反論します。

『「何を心の中で考えているのか。5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」』

 ここでイエス様が使っている罪(ハマルティアἁμαρτία)は、ほとんど全て複数で使われていて、特定の罪を単数で指すことはありません。神様によらない出来事や思いを「罪」と考えたならば、一つ一つの罪の事を指すのではなく、神様に従わないこと一般を罪と呼んでいるのです。これまで犯した罪、そして将来の罪の全てを指すと考えてください。そして、その罪を赦す権威を持っているのは、人の子(Ὁ Υἱὸς ἀνθρώπου:ホ ユイオス アンスロポン)「The San of man」であります。イエス様は、この福音書で初めて明確に、「ご自身が神の子である」こと、そして「罪を赦す権威を持っている」ことを宣言しました。

 注)◆神の子(かみのこ) 旧約では,イスラエル全体を神の子と呼ぶ例もある(出 4:22など)が,イスラエルを治める王の称号としても用いられた(詩 2:7参照)。新約では「メシア」「人の子」などとともにイエスに対する称号として用いられており(マコ 1:1,15:39),イエスと父である神との特殊な関係を指す。これにあずかることによって,キリスト教徒も神の子となる(ロマ 8:14-16)。

◆人の子(ひとのこ) 旧約では「人間」の意味で用いられることもあるが(民 23:19,詩 8:5),新約では多くの場合メシア(キリスト)を指す術語である。しかも,唯一の例外(使 7:56)を除いて,すべてイエスの言葉の中に用いられ,イエス自身の呼び名とされた。これはイエスの受難(マコ 8:31),罪を赦す権威(マコ 2:10),受くべき栄光(マコ 8:38)を表す。

 イエス様は中風の男に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言います。すると、

『5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。』

 中風の人も同じ「人」であります。それなのに、「あの人の罪の結果だ」とか、「あの人の両親の罪の結果だ」とか、レッテルを貼り付けることは良くないことです。神様ご自身が、造られた人です。すべての人々が神様に祝福されるべきなのです。イエス様は、すべての人を癒そうとされます。しかし、イエス様の前に連れてくる人が居なければ、その癒しは与えられません。そういう意味で、私たちは「イエス様を信じ」そして、イエス様の前にイエス様が必要な人を連れだすことが大事です。癒されないかも?とか、疑っているのは私たちの罪の心でしかありません。この物語の友人たちの行いは、そういう意味で祝福されました。

 ですから、わたしたちが向き合わなくてはいけないのは、神様から出た「愛」と自分の持つ「罪」です。自分が考えていることを正しいとする自己絶対化や、神様の命令と思い込んで悪を行う錯誤、仲間を支配したい「欲」など、自分が一番とか自分は人よりも上との認識による行いは、「神様の思い」ではありません。律法学者やファリサイ派の人々は、神様の側に立つと言う錯誤を起こしてしまいました。この中風の男を救うことよりも、イエス様の発言を裁くことに熱心だったわけです。こうして、「神様の思い」に向き合わずにいては、かえって罪深いわけです。しかし、この物語の最後で人々は皆讃美したのですから、この罪は取り消されているのでしょう。