マタイ13:1-23

「種を蒔く人」のたとえ

  

1.「種を蒔く人」のたとえとその説明


「耳のある者は聞きなさい」しばしば、イエス様はこの言葉を使います。そして、イエス様はたとえを使います。たとえですから、何をたとえられているのか気付かなかったとか、表面的に言葉を読み取り、そこに託されたメッセージを聞き流してしまっていたら、何を言っているのかわからないのです。ですから、「聞く耳を持っている者」にしか、たとえは通じないのです。

 

種まき → 道端に落ちた種 → 鳥の餌 (悟らない人のところでは、種は無駄になる)

    → 土が浅い    → すぐに芽が出た → 根がないために枯れた(信仰の根が無いので、すぐ受け入れるが、すぐ躓く者)

    → 茨       → ふさがれる(世の誘惑で、み言葉がふさがれる人)

     → 良い土地    → 実を結んで100倍にもなった(悟る人のところに、種は実る)


 蒔いた場所が、人の信仰姿勢をしていることに気が付いていないと、ただ、当たり前のことを 言っているだけです。この4つの場所の何処が自分のことになるのかを、考えなければ、このたとえを悟ることはできません。

 

 

たとえを用いて話す理由

 

14節のイザヤの預言は、元の箇所はイザヤ6:9-10です。

『6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」』

この民をかたくなにし、耳で聞くことのないように、そして悔い改めて癒されないようにしなさいと、神様はイザヤに言っています。

 

マタイでは、イエス様は、「民をかたくなにする意図」がありません。しかし、民が心で理解せずに悔い改めないと、その責任は民にあると イザヤを引用しながら主張しています。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 

また、弟子たちには『天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない』とイエス様は言われています。そして、弟子たちはかつての預言者らが見たくても見られないものを見ているとも言います。天の国の秘密を悟ることが許されていないから、たとえで話すとも、イエス様は言っています。ここで注意しなければならないのは、マルコと比べて、マタイの描く弟子たちは優秀だということです。つまり、マルコでは弟子たちが悟っていないことを何度も書いていますが、マタイはその部分をマイルドにして、悟ったかのように書かれているのです。

マルコ『4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』

ここでわかるように、まだ、弟子たちも悟るようになる時期がまだ来ていないのです。そして、その時期が来たらわかるように「たとえ」を使ったのです。ただし、信仰のある者はそれによってさらに信仰が得られ、信仰のないものはその持っているものまで取りあげられるのです。取り上げられないように、理解できない者には、理解しやすく「たとえ」で話し、そして、

神様がかたくなにしたものには、「たとえ」話で、ますます理解ができなくされたのでしょう。